いいじゃない幸せならば

由紀さおりとpink martiniのアルバム「1969」に収録されたカバー曲を聴いて、昔とは全く違った印象をもった。1969年に佐良直美の歌ったヒット曲で子供だった私もよく耳にした。この曲はとても退廃的な曲に聴こえたのだが、いま聴くと人生を生きるのにとても大切なことを歌っているように感じる。

他人からどう思われようと、いまが幸せなら、いまが良ければいいじゃないという曲である。子供の頃から、他人に迷惑をかけてはいけない、他人から後ろ指をさされてはいけない、先のことを考えて今は努力をし我慢をしなければならないと散々教え込まれた私にとって、この曲は大変なNGソングに感じられた。今の今までそんなイメージが染みついた曲であった。

しかし、ルールを守れ、他人に迷惑をかけるな、未来を優先し今は我慢をせよというのは”社会”の都合でしかない。ここでいう社会というのは、エゴが自分にとって不都合であることを他人に制限をするためにルールを作って縛る集合意識のようなものを意味する。

真面目で馬鹿正直な私は立派な大人になれと言われて、立派な”歯車”になった。他人の目を気にし、目に見えない”社会”に忖度をし、自分を押し殺し、未来のために今をないがしろにする。でも、それでは自分は幸せにはなれない。

エゴというのは誰にでもあり、お互いに縛りあい、あげくは自分自身も縛ってしまう。エゴは自分自身を守ろうとしてのことなので、残念すぎるお話である。社会にとって、大多数の人間は歯車であることを強要されている。それは社会システムの教育(洗脳)を見ても、まんざら間違ってはいないだろう。そして、歯車になりきれない人間には不要品のレッテルを貼る。それが恐ろしくて、我先に歯車になっていく。

しかし、他人がどう考えるかなど制御はおろか、読み取ることすらできないことだ。そもそも人の数だけ考え方はある。同じ事柄への感じ方、考え方、判断など千差万別である。それを自分の基準で類推をして、空気を読んで行動をしなければならない。よく考えれば、できもしないことをやれと言っているわけである。それは大変な不幸である。でも、洗脳されているので歯車でない側に行くということはなかなか考え付かない。

いまでこそ、自分を大切にしよう、いまを大切にしよう、自分のやりたいことをしようなどと言われるが50年前の常識ではこれは何をバカなことを言っているのかと非難をされかねない。それでもヒット曲になったということは、当時の大人も何かが違うと感じ取っていたのかもしれない。

いまが良ければいいじゃないというと、ついアリとキリギリスの童話を思い出してしまう。アリは将来に備えてせっせと働き続けるが、キリギリスは今を謳歌し歌って過ごす。やがて冬がきて、アリは食べものに困らないが、キリギリスは困ってしまう。子供向けなので、アリはキリギリスを助けることになる。しかし、現実はもしエゴが先行する世界であるならば、アリはキリギリスが死ぬのを待って餌にするだろう。エゴにとって、長生きすることが重要なので長生きできないキリギリスはダメな存在であるという。しかし、本当にそうだろうか。キリギリスは今を謳歌し、好きな歌を歌って楽しんだ。もしかすると我人生に悔いなしと安堵して死んでいくかもしれない。それに蝉に至ってはは1週間の成虫の生活を歌いまくって死んでいく、それに比べて1シーズンを楽しく過ごせた、なんと幸せなんだろうと考えるかもしれない。また、アリはアリで働くのが楽しくて楽しくて最高であるなら構わない。もし、働くこと以外にやりたいことがあるならば、ただ長く生きるだけの人生に何の価値があろうかと考えたかもしれない。もちろん、そんな観点を子供に教えてくれるような学校はありはしない。

当たり前なのだが、他人がどう思うかが重要ではなく、自分がどう思うかが幸せになるには重要なのである。などとこの曲を聴いて考えさせられた。50年ぐらいは先取をした曲だったのだろう。