スーパーマンvsバットマン

テレビで映画「スーパーマンvsバットマン」がやっていたのを横目でちらちら見ていただけなので細かいことはわからないのだけど、今の世の中はヒーローやるのも楽じゃないと思った。

日本では古くから東映映画まつりなどで、複数の番組をセットにしたような作品、マジンガーZ対ゲッターロボとか、ウルトラマン対仮面ライダーみたいなのがあった。ウルトラマンと仮面ライダーはサイズ違いで戦えないだろうというと、仮面ライダーが巨大化して戦ってしまうというスゴイ展開のお気楽なお話だったのを記憶している。

最初は競い合うが最後はお約束の協力するという予定調和であるという意味では同じようなものだが、現代においてはもっとシビアでメンドクサイ展開になる。

人間から見れば神のような超越的力をもつスーパーマンは悪役にはめられて、アメリカの公聴会に呼ばれたり、バットマンと戦う羽目になる。

前作で地球を救うために戦ったが都市を破壊し、犠牲者を出したスーパーマンに非難が集まってしまう。犠牲になった人たちの関係者はスーパーマンを許せない。

これを日本のヒーローにあてはめれば、善意で地球に来て戦うウルトラマンが怪獣と戦った際に家を壊された人たちに損害賠償請求をされるようなものである。

昔は全体のためには犠牲はやむを得ないし、ヒーローものを作るのに都市が破壊されるのは当然であったし、あまりそこは考えてなかった。ところが、そこにも個人一人ひとりの生活があり、人生があるというのはリアリズムを追求すれば、その通りである。

スーパーマンは自分を育ててくれた人たち、地球の仲間のために良かれと思って戦って、結果は都市が大惨事という結果になる訳だが、事前にそこに住む一人ひとりに了承と立ち退き契約をとっておく必要があった訳である。

ヒーローにしてみれば、「昔はよかった」ということになる。そもそも、昔のヒーロー作品は娯楽作品でそこまでのリアリズムは考慮されていない。イチイチそこに責任を取れと言われるとそもそも戦える訳もない。

さらに、スーパーマンや仮面ライダーのような超強力な生きた兵器が街で普通に自律的行動で暮らしていることを他人が許せるわけもない。ただ、そこを言ったら御終いでしょというところ。突っ込みどころ満載の作品に真面目に突っ込んだら、こうなりましたというお話。

ヒーローものとは、強き者は弱きを助け、弱きものは強き者を支えるようなワンフォーオール、オールフォーワン的な下敷きを必要とする。人は解離が進み、皆が一つであることを忘れ、個の権利の追求と相互不信のみが横行する世界となっている。今は弱肉強食が過ぎた世界である。

作中で”神”(ゼウス)の血筋であるワンダーウーマンが「100年前から人間と距離を置いた」と”神”による見捨てました宣言をしている。「このままじゃ人間ダメですよ」というヒーローからのダメ出しがなんですね。

どうすれば、お互いに信じあい、助け合い、一つになれる世界が作れるのか?それはこの壮大な地球プロジェクトという実験の大きなテーマなんでしょうね。