インシャ・アッラー

最近、気に入っている言葉は、インシャ・アッラー(神の思し召しのままに)である。ご存じの方も多いかもしれないが、イスラム圏の言葉である。私は子供の頃にイラン革命前のテヘランに住んでいたこともあり、とても馴染みがある。

イラン人は何かというと「インシャ・アッラー」と「ファルダー」を言う。ファルダーとは「明日だ」「明日にやる」というような意味である。

遅刻をしては「インシャ・アッラー」、(神の思し召しが遅刻なんだから仕方がないじゃない、遅刻したのは神の意志だ)、依頼事項を確認をすると「ファルダー」(明日だ)という。毎日確認をしても、毎日ファルダーが返ってくる間に「インシャ・アッラー」が混じるような感じだ。

この開き直りのような対応は日本人的には全く理解できない、意味がわからないと思っていたが、現地はすべてがそれなので仕方がないと思っていた。

所が今はその意味がわかるような気がする。

人は自分の思考や行動で自分の運命を左右できると考えていると、うまくいかないことも、うまくいくことも自分の仕業であり、責任だと思ってしまう。

物事は自分の思い通りになんて動いてはくれない。どんなに緻密な計画を考えて、それにそって実行をしても、天災があればすべては吹き飛ぶ。実際はそれが現実である。

うまく行ったのはたまたまに過ぎない。すべては、神だか、運命だかにゆだねられている。確率論で物事が起きると考える人がいるが確率はあくまで過去のことであり、これから起きることは起きる時はなんでも起きる。

たとえ、1000万分の1の確率だって、起きてほしくないタイミングで起きることはある。

神という言葉が妥当かどうかは別として、神の思し召しのままに自分はながされているだけなのである。

もちろん、だからと言って何もしなくてもいいという訳でもないだろう。せいぜいできることは、可能な範囲でやれることをやるだけだ。その先はすべてを天だか運だかにまかせるしかない。

できる時は神の仕業としてできる、できない時は神の仕業としてできない。そう考えると人生はずいぶんと気楽なものになる。この世のすべての問題が自分のせいで、自分が悪いから起きるのだなんて思う必要はない。むしろ、私はそんな自責の念によって苦しんできたのだが、子供の頃から知っている言葉の中に真実があるのだと思った次第である。

もちろん、日本の社会で表立ってイラン人のようにすべてを神のせいにしたら、この息苦しい社会ではなかなかうまくはいかない。

しかし、自分の考え方の中にだけでも、これを取り込むことで生きづらさは減らすことができる。