愛というもの

愛とは何か?は私にとって長い間のわからない謎だった。

大人になってある日疑問に思ったのだ、私は愛というものを本当に知っているのか?と。曖昧なイメージで、男女間の愛、親子の愛などを愛だとし、その実は相手を大切に思う気持ちという程度の理解しかできてない自分に愕然とした。

それは本当に愛なのだろうか?自分は親兄弟を、そして妻や子供を大切に思っている。しかし、それは愛なのか?自分は愛というものがわからないダメな人間ではないか?など。

そもそも、若い頃にイメージしていた男女の愛は、情愛であり、性欲も含めての感情が多分に含まれていた。愛と情愛は同じなのか?違うものなのか?わからないことは山積していた。

私は人を利用価値ではなく、存在価値で見るべきだと考える 。「その人に生きていて欲しいと思う気持ち」「その人が生きていてさえすれば、この世は素晴らしいと思える喜び」、そんな人の気持ちが人の存在価値を作り出す。

その裏付けとなる気持ちこそが愛というものだと私のインスピレーションは語った。

長年、謎であった「愛とは何か?」の答えは私としては それで 腑に落ちた。今の社会は人を利用価値でしか見ないが、本来は存在価値で見るべきだというインスピレーションは10年も前にやってきたのに、愛に関するイメージは遅いご到着である。

人間歳をとると、10年ぶり、20年ぶりに会った懐かしい同級生、同僚に対して生きていてくれてありがとう、こうして会えてありがたいと思う。どちらかが亡くなっていたら会えない訳で、どちらも健在なのはたまたまでしかないことが、最近は実感できる。さらに歳を取ればそれはもっと切実な想いになっていくだろう。

幸せを感じるのに、何をするかが大切だと長い間思いこんできたが、実は何をするかではなく、誰とするかの方が重要ではないかと思う。自分が大切に思う相手と一緒であれば、たいそうなことをしなくても幸せなのではないかと。そこに愛、その人に生きていて欲しい、一緒にいてほしいという想いがあるなら、何をしていたって楽しい訳である。

実相を言葉で表現をすると、その人にはしっくりきても、他の人には陳腐に映ることがある。同じ言葉でも、人それぞれに受ける印象や自分にとつての意味が違ってくるため、言葉にした瞬間に実相を顕わさなくなるという性質がある。

ところが、人が概念を理解をするためには、言葉にしないと理解できない所があって、そこに難儀なところがある。

私としては長年の懸案が腑に落ちて、自己満足をした訳であるが他の人にはピンとこないかもしれない。しかし、それはそれでよいのだと思う。