理解されることはうれしい

私は20代前半は至って普通の物質文明と科学を信じて疑わない若者だった。見えない世界などというものは怪しいの一言で片付けていた。

ところが気功というものに出会って、自分が目に見えない、科学では説明できないものを感じるようになってしまった。今度は怪しいの一言で片付けられる側に回ってしまった訳だ。今はスピリチャル流行もあり、そんなことを言っていても、ちょっと変わっている程度で済むのだが、30年も前となると怪しいことこの上なかった。そういった意味では、今は良い時代である。言論の自由の枠は広がっている。

今でも、やはり目に見えないことは信じてもらえないことは多い。友人・知人で病気などで困っていたら、ヒーリングをしてあげようかと言ってみるのだが、だいたい丁重にお断りされる。たまに頼まれて実施すると多少なりとも喜ばれるのではあるのだが。

先日も昔の会社の同僚が、くも膜下出血で一命を取り留め入院中というので、連絡をしてよかったら気功治療をしようかと言うのだが、丁重にお断りされた。

以前は自分にできることがあるのに活かせてないことに罪悪感すらあり、その不甲斐なさにやるせないものを感じたが今は違う考えを持っている。

人は何かの力や才能を持っていても全ての人を助けられる訳ではない。自分が相手の力になれるのは、そう言うご縁のある場合のみである。なるようになるし、なるようにしかならず、起きることはすべて正しい。

気功の師匠が当時言われたことに「他人の人生のカルマに無闇に干渉してはならない」がある。ヒーリングや仙道では時に人の人生に関わる影響を与えてしまう。干渉してはいけないなら、自分以外に対してはどう関われば良いかわからないと思ったものだ。

今は、その人を助けるご縁があれば、関われば良いと思っている。頼まれたらすれば良いし、頼まれなければご縁が今はない。必要なら自然と関わる流れに向かう。無理をする必要はない。

後遺症から自力のリハビリで立ち直ることが彼の人生にとって必要であるならば、そのカルマを自力で解消していく道を選ぶ人に対して、ただエールを送れば良いのである。

ネットで知り合った人で、私の書く内容をとても理解してくれる人がいる。友人の中には、私のぶっ飛んだ話を感覚的にはわからなくても受け入れてくれる人は若干いるが、感覚的に理解できると言ってくれる人は滅多にいない。理解されないことの方が圧倒的に多い。話を聞いてもらい、感覚的に共感をしてもらえると言うことは如何に嬉しいことかと改めて思った。

エンパスは共感力が強いのだが、相手が共感してないことまでよくわかってしまう。だから、自分に共感していることを感じられるのはひと塩嬉しく思う。