恐れを手放すこと

ここの所、何人かの方に恐れを手放そうという話をしたのだが、まるでデジャブなのかと思った。恐れにとらわれた人が現れる。そして言葉の裏に不安を隠して、何かを主張する。恐れを持つことに気づいている人、気づいていない人、そもそも違和感すらももたない人など色々といる。

不安の底には恐れがあり、それの正体は死への恐れだが、今それを本当に恐れる必要があるのか。そんなことで死にはしないことに対しても、自動的に感じる恐れを手放すと楽になると私は偉そうに人に言う。

人のことをいうのは簡単である。しかし、とどのつまりがそういう人に頻繁に出会うということは、私自身が恐れを手放す時期に来ているということだろう。恐れを手放すことが良いという実感はあるが、自分自身のこととして実践できている訳では決してない。そもそも、自我というものは死の恐怖を手放すことはできない。仮に死んで転生できるとしても、転生をするのは魂だけで自我は体と共に脱ぎ捨てられていくものだ。自我は体に付属するプログラムであると私は考えている。(もちろん考え方は人それぞれである。)死ねば一巻の終わりの自我が、置いて行かれると知っていて、永遠の命を信じることなどできるわけがない。だから、恐れを手放すと言っても自我がある限りは可能な限りという限定がつく。

悟りを求めるのは人生後半におけ死を迎えるための準備だという人もいる。そうだとすれば、随分と若い頃からそんなものを追い求めたものである。しかし、未だにまったく悟れていな私は恐れを手放すことはできていない。

それでも、USPTを含めた自分へのヒーリングによって、昔に比べると恐れを手放し、さらにはそうした方が心の安寧があることは強い実感がある。とりあえず、自分がそういう意味ではまだダメダメであることだけはわかった。それがわかっただけでも、わからないよりは御の字である。だが、そのために随分と紆余曲折・波乱万丈な人生を歩んできてしまった。もう少し器用であればよかったのにとつくづく自分の不器用さを思う。

少しでも恐れを手放すこと、それは生きている間中取り組む課題なのだろう。地道にやっていくのでよい。