人生の目的地は死である

人生の目的は何か?こんな自問自答を散々やってきた。君は何かしたいのか?人生をどうしていきたいのか?目的意識を持って、目標設定をしないと人生はうまくいかない。どこかの自己啓発プログラムで言われていることである。

私はそれを真に受けて、散々と生きる意味についての自問自答をしてきたが、50を過ぎてもさっぱりわからなかった。むしろ、わからないという結論に行きついている。

佐賀県の鍋島藩に伝わる葉隠れには、武士道とは死ぬことと見つけたりという言葉がある。これを初めて聞いたのは、ルパン三世の石川五右衛門の言葉である。ファーストシリーズを小学生の時に毎年夏休みに見ていたが、この言葉が頭から離れない。それがわかったような気がした。

ある日、ぱんとインスピレーションはやってきた「人生の目的地は死である」これは考えてみれば、しごく当然のことである。人は死という終着駅に向かって旅をしている。最後に必ず到着する先は死なのである。死を忌み嫌う風習があるから、我々はそれに極力考えないよう、目を向けないようにし、無意識に恐れ遠ざけようとあがいている。

私の理解では自我とは、肉体のAI付ナビゲーションアプリである。自我は肉体と共に滅ぶ。魂が転生をして永遠の命であったとしても、自我は置いていかれることを知っているのだから、永遠の命など信じられるわけもない。死を恐れるのは自我の宿命であり、自我がコントロール主体として運用している限りにおいて、その恐れから逃れることはない。

死がどのようなものかは私にはわからない。前世を見た時に体験をした死の瞬間はあるが、本当の所は死んでみないとわからない。

出張をする時は到着した先に仕事があるのだから、旅とは違い過程を楽しむということに主眼を置かない。旅というものは玄関を出た時から旅であり、その過程を楽しむものである。人生はどちらかというと旅であるのだが、死に到着をしたらこの世にはいない訳で、我々にわかるのは死の直前までの行程のみである。つまり、我々生きた人間には目的地までの過程しかないのだ。

自我(エゴ)というのは、目的とか意味合いということを重視をし、過程を軽視しがちである。結果がすべて、結論は何?、成果がなければ意味がないというのはすべてエゴの仕業である。だから、エゴに任せておくと人生には何か成果や結果があり、終着駅には死以外の何かがないと我慢ができないのだ。過程はすべてジャンク品、無価値なものとして扱われてしまう。我々には過程しかないのにである。これはなんと不幸なことなのだろうか。

「人生の目的地は死である」 というシンプルな真実は自我を絶望に追いやる。いったい、俺はなんのために生きるのか?わかりやすい終着駅がなくして、何が人生か?と。それはエゴの作り出す幻想なのである。そんなものは実はないのである。

では、どうすればよいのか?死に至るまでの過程とは「今、ここ」のことである。明日が来ると寝て待っても、やってくるのは「今日」である。いつまで待っても、「明日」が来た試しがない。いったい、俺の未来はいつやってくるんだと思って、半世紀がたつ。そして、ふと気がつくとここが昔思い描いた”未来”そのものなのだが、その実感がないのはやはり「今日」でしかないのだ。

死ぬまでのわずかな間、せめて今を楽しむこと。それが私にできるわずかなことである。インスピレーションはそう語る。

意見には個人差があります。( byさだまさし)