インディゴ・チルドレン

単身赴任である私は子供たちと中々語れる機会はないのだが、3連休であることから電話で息子たちと会話をしようと電話をしてみた。高校生であるので、最初は生返事の連続であったが親父に付き合って1時間ぐらいは近況などを話してくれる。まあ、ありがたいことだ。私はかつて父にそんなに優しくはなかった。

最近面白いと思ったことは何かあったか?という質問にこんなエピソードを語った。

クラスで普段は成績が悪い子が急に高得点を試験でとった。クラスメイトの中にはカンニング云々を疑う連中もいた。だが、驚くべきことに教師が証拠もないのに堂々とカンニングを疑ってかかったという。これはパワハラだがそこは今は問題にはしない。

その顛末を長男に、言いに来た男の子がいる。事の顛末を聞いて、息子は「つまり、その生徒が普段に教師の信頼を獲得する行動をしてなかったということね」というとその男の子は「お前、頭おかしいんじゃないの?」掴みかかってきたという。自分として何にが起きたのかがわからなかったと語る。

私もその話だけを聞いて、何が起きたのかはわからない。ただ、その男の子は件の生徒の友人かもしれないということだ。少なくとも、息子にそれを言った子は返ってくるリアクションにある想定をしており、それとは違う反応に反感を持ったことに違いはない。

考えられるのは、以下ぐらいだろうか。

①ご忠信をしてきた子は、疑われた生徒の友人で好感を持っており、無闇な疑いを向けてくる教師やクラスメイトが悪いと裁いている。だから、同じ反応をしてほしかった。

②ご忠信をしてきた子は、中立だが疑われた生徒よりも、疑う教師・生徒が悪いと感情的に裁いている。それに乗ってこない息子へ反感を持つ。

③信頼をされる行動をとってないと言われて、自分自身をディスられたと思った。

まあ、どれが正解かは確認をする術もなく、息子もわからないと頭を傾げた。私にとっては、そこはどうでもいい。(笑)

私が注目をしたのは、「教師や生徒が人が信じられず、不信感を振り回して人を責めている」という目立ちやすいモデルの裏に行ってしまいがちな「疑われた側にも責任はあるかもしれない。」というモデルに気づく息子はシニカルではあるが、人をよく見ていると感心をする。少なくとも自分が高校生の時は御多分にもれず、自我と感情に振り回されるだけで動いており、そのような物事の捉え方はできなかった。

子供たちは小学生ぐらいから、私が40すぎになってからやっと到達した境地のことを意図もたやすく見抜いてしまうことがあった。私はひそかに魂のバージョンが全く違うと感じていた。もちろん、その世代全体がそういう訳ではないに違いない。しかし、私や私の父の世代に比べて、圧倒的な違いを感じる。それは多くの葛藤や感情の記憶に振り回される我々と彼らには何か違いがあるのではと想起する。

精神世界にはインディゴ・チルドレン、クリスタル・チルドレンという言葉がある。世代的にはどちらでもおかしくない生まれ年ではある。小学校の時に気を上げるラッキーカラーというものをリーディングした時に長男は白色、次男は青色であった。偶然に過ぎないとは思うが、インディゴ・チルドレンはオーラが青色、クリスタル・チルドレンは白乳色であることが語源である。私はオーラは見えないので、そこはわからないが、インディゴ・チルドレンはそんな感じと言われたら信じてしまうだろう。

一つ思うのは、人を信じることすら知らない精神性の低い教師が精神性の高い生徒と関わるのは、かなり無理がある。良い影響など全く与えず、単なる不幸である。教師側から見るとバカにされているようにも感じるし、いろんなことが見抜けてしまっている生徒は大人に失望しか持たない。教師とは親と共に、生徒が大人というもののベースモデルにする数少ない大人の一人である。教師は聖職であると言われた時代があったが、実はそれが必要なのかもしれない。もちろん、昨今の教師がいろんな意味で大変なのは知ってはいる。だが、親の視点から見れば、パワハラしかできない害のある教師には退場を頂きたい。

自分の息子ながら、スゴイなと思う。それは単なる親バカに過ぎないかもしれないが、それでいいのだ。そんな中で旧式の私は旧式なりに頑張っていく必要はある。(笑)