友人の悩み相談?的なことをしていると気づくのが自責の念が強い人はつらいのである。人のことを言えた分際ではないのは、私自身も少し前までは自責の念の塊であった。逆に言えば、そのつらさも十分に知っている。
いわゆる良い人であろうとすればするほど、「〇〇しなければならない」「〇×をする必要がある」が多い。当然だが、誰でも人からは嫌われたくはない。今、私自身はずいぶんと自責の念が減ったとはいえ、積極的に他人の恨みなど買いたいとは思わない。他人からの恨みや憎しみが生霊になって飛ぶことを重々承知していれば、なおさらである。
悩み相談として、いろんな方法によって、気を楽にする方法を教えたり、「自責をするのはやめましょう」と言ってみたりする。ところが、ご本人は「わかりました。自責をしてはいけないんですね。」と来る。そして、真面目に取り組みすぎるとまた落ちてしまう。
自責をしてはいけないという禁足もまたこだわりであることから、簡単ではない。どう言っても、身に染みついた習い性が一言二言の言葉で変わる訳はない。何か言葉をかけても、何かと自責の材料にされてしまうことを感じるが、そんな時はできることはないのだろう。
会社ではこうしなければならない、地域の人との付き合いは、夫として、妻として、親として、○○しなければならない。現実と向き合う時にはそうできれば一番良い。
しかし、ない袖は振れないので、お金がないのに借金してまでやるのか?時間がないのに、手が足りないのにそれをするのか?相手は本当にそれをしろと言っているのだろうか?それができないと自分はダメだ、価値がないという声が内側から聞こえてくる。
何が自分を苦しめているのか? それは誰の声なんだろう。それがある意味自分と向き合うことだったりする。往々にしてその大元は、親だったり、教師のよかれと思っての言葉だったりする。
幼い子供に対して、社会で生きていく方法を教える場合、白黒はっきりしないことを言ってもうまくいかないケースはある。だから、デフォルメをして教え込む必要がでる。グレイなことを言っていると子供がルールに収まることはないだろう。
親になって困るのは本音と建て前の解離した社会というものを教えることがうまくできない。幼少時は建て前中心に教えざるをえない。○○しなければならないというのはその最たるものだ。子供が成長をして分別がついてから、グレイの境界を教えられれば良いが、多くの親はそんなことはできていない。
私自身も今になって自分の子供へ申し訳ないことを教えたという思いはある。そのようなトラウマの原因は過去世や先祖の記憶から来るものであるケースもある。
難しいことをしなくても、その記憶の大元で感じることと向き合い、感じて、受け入れることでその問題は受容されていくにつれて、気にならなくなっていく。
私自身の経験で言えば、自責の念が減ったのはUSTPなどの方法を使って心の中の統合をしてきたからに他ならない。私の場合は以前に紹介をしたように、方法との相性も良かったし、それまでの経験によりその方法をすぐに使いこなせたこともあり、数か月のカウンセリング・セラピーで激変をした。
もっとも、どんなメソッドでも人には向き不向きがあるし、その進捗もマチマチである。だから、私が経験をした方法が万人に通用するわけではない。
自責の念を持ちにくくなると、自分のできる範囲でやろう。できない部分は他人に頼ったり、迷惑をかけてごめんなさいと言って済ますなどという気になってくる。人間はスーパーマンではない。なんでもできる訳ではないのだとわかる。
自責の念に駆られているのは自分で何でもできると信じているし、できなければ自分には価値がなく愛されないと恐れを持っている。それが悪い訳ではない。それを感じるフェーズの人はそれを感じるために今があるのだ。
それを十分に味わった時、準備ができると「私はもう嫌だ」と主張できるようになるはずである。すべての経験は無駄ではない。たとえ、愚かに見えることをした時には愚かな経験を積むという立派な役割がある訳だ。
人生は短い、だから急がなければ。全然進まない自分はダメだなどという人がいる。人生が短いかもしれないのはその通りだ。今の瞬間生きていても、誰にとっても次の瞬間に生きている保証はない。どんなに元気でも、どんなに若くても。寿命が来れば皆が彼岸の人になる。どんな人にも平等にあるのは、”今”生きているということだけだ。
今を大切に、今の自分にやさしくして、素敵なことにすることだけは全ての人に可能なことである。そのためには、自分を責めずに優しくあろうよと思う。
これは、しなくてはならないことではない。可能な範囲で、今やれることだけやれれば上等なのだ。