YouTuberの台頭

以前はYoutuberの番組はほとんど見なかったが、最近はちらほらお気に入りのYoutuberの番組を見る。中田敦彦、Naokimanなどを良く見ている。番組数が多いので、見始めるといくら時間があっても足りない。一方で子供たちに人気の悪ふざけをする番組はなかなか馴染めない。

もともと、テレビの時代に生まれ育ったこともあり、テレビをよく見ていたのだが、最近はテレビとYouTubeの違いを感じる。どちらが良いとか優れているとっかではなくて、違いだと思う。

テレビは放送でマスメディアであるのだから、最大公約数に求められる内容を中心とする。おのずと、多数派に訴求する内容で視聴率を取ろうとするために、大衆におもねることになる。

YouTubeでは多数派に訴求する内容を作る人もいるが、少数派にしか訴求しないような内容を作る人もいる。日本の1億人の中で1万人にしか訴求しない内容はやはり少数派なのだが、数万人が求める内容を番組として作る人もいる。

これはテレビではできない。ハリウッド映画の内容は大味であると言うことがあるが、ハリウッドは世界中の誰でもわかる内容を作ろうとするので、アメリカだけ、日本だけ、イタリアだけで受ける内容は作れない。それと同じことが、テレビでもある。

YouTubeというのはその制限をどのようにでもできる。とても、マイナーな趣味の人だけに受ける内容でも、世界中のその趣味の人を集めれば数万人になるので、それで商売としては成り立つわけだ。

そのため、驚くほどの多様性があり、番組はありとあらゆる内容がある。

最近、人というのは本当に人それぞれに好みや趣味、考え方、嗜好がまったく違っていると感じる。同じ日本人の同じ男性で同じような年代であっても、まったく違う。能力、感性、考え方、信じるもの、性的嗜好、好みなどなど、分類すると100人いたら100通りである。

1つの番組を作ると、それを好きという人と嫌いという人は必ず出てくる。その中で1つの番組を作ることで、半数以上に支持されようとするのは実はかなり無理がある。もちろん、たまたまそうなることはあるが、それを計画的に作ろうとするのは無理である。それをテレビはやろうとするので、制限だらけとなるわけだ。

昭和の時代は、「皆は一緒」という洗脳がきつかったので、それができていた。しかし、令和の時代になると「ひとはそれぞれで違っていい」という価値観になっており、「右向け右、左向け左」の全体統制は効かない。

個人の時間の奪い合いであるテレビ、ゲーム、YouTubeの戦いは、選択肢の多さによって、自ずと軍配の上がる先は決まったという感じ。

テレビ黎明期に日本人が皆見ているというようなお化け番組が作れたのは、娯楽の種類が少なかったことが原因でしかない。今は娯楽の数が多いので視聴率など取れるわけがない。多数に見られないと維持できないとするならば、テレビはすでに寿命なのかもしれない。

若い世代は「テレビの時代」の洗脳を受けていないこともあり、最初からテレビには見向きもしないのだと思うと、自分がいかに洗脳がきつかったのかと改めて思う。

YouTubeは若者の文化と決めつけずに、取り入れてみようと思う。