その時、自我は消えたのか?

ふと、人にエネルギーを送ろうと思った。まずは、家族など親しい人に。

気の中でも根元気という概念がある。陰陽が分化する前の大元の気。それは物質自体が持つ波動だと私は解釈している。

陽の気は希少であるように見えるので、調達には若干の労もあるが、根元気であれば膨大にその辺にあるため、だだくさに使うことができる。そんな感覚を私はもっている。

通常、気功では陽(+)の気と陰(-)の気のバランスをとるのだが、実際は人の世では陰の気に偏りやすく,陽の気が希少に見えるため、陽の気が人気になる。

気の調整の目的はあくまで目指すのはゼロ(無)であるから、ゼロの相手に気を送る必要はなく、陽の人はむしろ若干気を抜く必要もある。だが、大概は陰に傾いていることが多く、陽の気を補気することになる。

本来、目指すのはゼロ(無)であるが、まるで陽(+)になることを求めてしまうような錯覚に陥りがちである。

この辺は私自身もふと気がつくと勘違いをしている感は否めない。

物質自体が根元気ととらえるとエネルギーを送る必要はない。それぞれに根元気は存在する。物質自体が波動である。何も足す必要などない。そこからエネルギーを取り出せばいい。外から足す必要も、引く必要もなく、そのままでよい。

もともと、充足されているのだ。そう考えると、自分だ、他人だと頑張る必要はない。

自分を守る、懸命に自分でいることに頑張る必要がないのなら、個の境界自体が不要に思える。その時にふと自我が消えていく。人との垣根がなくなっていく。すべては1つになっていく。

集約するのではなく、飲み込まれるのでもない、力を抜いてだらーと開いていく。

自分がなんだかわからない感覚におちいる。自分は偏在であり、自分はない。その時が超自我であるのだろうが、そのギリギリの線で超自我たりえない。なぜならば、自我が考えている思考だからだろう。

インスピレーションが語る。そうなのだと。

私にはわからない。私はまだ自我であるから。

錯乱している訳でもない。もっと、ずっと静かである。ただ、そのようなイメージがやってくるだけである。本当かどうかもわからない。怖さもない。言ってしまえばどうだっていい。あるべくして、ある。なくても困らない。

私はそんなに立派な代物ではない。言ってる意味がわからない。それでいい、考えるものでも、わかるものでもない。ただ、感じればいい。

ぼーとしている時に通り過ぎたイメージをなんとか文章にしようとしてみたが、何を言っているのか自分でもわからない。私の文章力などそんなものだろう。

誰にも何も響かないかもしれないが、備忘録として記載しておく。