罪悪感のない人には生霊はつかない

かねてより、良心、罪悪感のない人には生霊がつかないのが不思議だと思っていた。シークエンスはやともさんの書いたコラムにも同様なことが書かれているので、実際にそういう傾向があるのかと思った。

ではなぜそのような事がおきるのだろうかについて、勝手な考察をしてみた。

私はこの世界が皆にとって同じ世界ではなく、それぞれが自分の意識のフィルターを通してみており、実はまったく違う世界に生きていると思っている。それは、実際に起きた出来事もその解釈が違うことで、違った意味をもつ世界という意味である。そして、その解釈や捉え方をお互いに完全には共有することができない。

神がいると思う人の世界では神は機能をしており、神がいないという人の世界では神は機能していない。何か別のものが機能する。それは法則であったり、自然科学であったり、宇宙かもしれない。

霊がいるという人の世界では霊は機能するが、霊などいないとする人の世界では霊など存在はしないし、機能しない。

サイコパスに限らず、アスペルガーのような人も、共感力がなくて、人の気持ちなどは理解しない。彼らは人の精神のエネルギーがあるなどとは概念すらわからないだろう。

彼らには彼らの世界があり、霊が見えるという人から見ると生霊も死霊もつかない無色透明な人に見えるのではないかと思う。自分の信じるものが自分の世界を作っており、何を信じるかは自由なのである。

良心も罪悪感もない人にとって、気持ちにエネルギーなど存在はせず、生霊とか邪気などというものなど存在はしない、ただただ物理的な世界が展開しているだけなのかもしれない。それなら、彼らに影響も与えられない。

非二元の立場から見てしまうと、霊があるとか魂があるということ自体もストーリーの一部である。すべてはあって、すべてはない。

その場合、幸も不幸もなく、善も悪もなく、好きも嫌いもない。二元でもなければ、四元でもなく、五行でもない。すべてはひとつになってしまう。すべてはストーリーでしかなく、幻想である。まったくもって、身も蓋もない世界である。

それからすれば、生霊がつく、つかないなどというのは些末な違いに過ぎない。どちらも幻想の産物である。なんとも救いのない考察となってしまった。(笑)

ある人から見ての法則に見えることも、ある人には全く通用しないということがあるということだ。法則に見えるものはそれを共有している人の世界同士でしか働かない。

それなら、空を飛べないと思う人は飛べないが、空を飛べるという人がいても不思議ではないのかもしれない。これを言ってる本人が考えても、難しいことではあるけれど。(笑)