運命とか、霊障って?

運命とか、タタリとか、霊障とかってあるのか?と考えることがある。

私はあるとは思っているが、実は誰にでもあるとはまったくもって思ってはいない。

それは神や仏、幽霊、霊界や地獄も同じである。それはある人にはあるが、ない人にはない。

神がいると信じる人の世界では神はイキイキも存在するが、信じない人の世界にはどこにも機能しない。

運命やタタリや霊障も同じくで、イワシの頭も信心からである。

普段は見えない物など信じないと恐れから言い張ってるが、何かあると霊とかタタリを恐れる人はそれを概念として持っている。そうではなく、全く概念として持てない人のことを言っている。死の恐れも良心も罪悪感もない人には生霊がつかないのはそんな理屈だろうと考えている。

人は外見から見ると自分と同じように見えるが、その実は相手と自分は火星人と金星人ぐらい違うかもしれない。ただ、同じと信じているだけである。むしろ、自分と他人が世界観の共有ができる、もしくは自分の世界観が相手にも共有されなければいけないという思い込みの方が幻想である。

非二元的な観点から見ると全てはストーリーの一部に過ぎない。全てはあり、全てはない。その人のストーリーにその概念があれば機能するが、なければ神も仏も霊界もタタリも存在はしない。人の数だけ世界観は存在する。

だから、運命もタタリも霊障もあるといえばあるし、ないといえばない。

同じような世界観を共有する人には通じるが誰にでも通用するものではない。

「だから、オカルトなんて信用できない」と言う声が聞こえてきそうだが、そもそも科学すら同じ土俵にのっている。

お互いに同じ世界を共有できていると言う幻想が成立する範囲でのみ科学は機能する。人によって知覚(測定)出来きたり、出来なかったりする範囲では機能しない。

誰がやっても同じ結果になる範囲なんて、とても狭いのだから。

量子力学では観測者が観測した時点で現実は決定する。では観測者が人によってスペックが全く違い、見えることが全く違う場合、それは科学として果たして成り立つのか。科学では誰がやっても同じ結果が出ることを重要視するからだ。

などと思う。

かつて普通に信じていた世界はインスピレーションからの言葉により、ガラガラと壊れていく。いったい何が正しいのかはわからない。この世界は思った以上に厄介なのだ。