こっち側とあっち側

東新宿から西新宿に通勤をする途中で、道の所々にホームレスの人たちがいる。朝から酎ハイなど飲んで、宴会をしていたりする。

こちら側から見ると、「ああ、かわいそうに」「家も仕事もなく不安だろう」「つらそうだな」などと勝手なことを考える。しかし、何回か見ているとあっち側は全く別のことを考えているかもしれないなどと考える。

あっちはあっちで、こちらのことを「ああ、かわいそうに」「朝から仕事いくんでしょ」「なんて不自由なのだろう」と社会に縛り付けられた私をそう見ているのかもしれないなどと思う。

もちろん、ホームレスの人だっていろんな人がいて、完全適応している人もいれば、ホームレスなど1日も早く止めたいと思う人もいるはず。何にフォーカスするかで思うことは違う。

野良猫と飼い猫の差に似ているかもしれない。野良猫は野良の自由があるが、飼い猫には食べものに困らないという安心はある。野良猫は首輪などつけられずに済むが、飼い猫は清潔で安全な食事ができるし、今どきはオヤツすらもらえる。どちらがいいかは好き好きである。

ホームレスがどのように思っているのかは実際に聞いてみないとわからない。極論、座って半畳、寝て一畳と達観した人なら、別にホームレスでも全く困らないかもしれない。すべてを断捨離した結果がホームレスだという強者もいるかもしれない。

ホームレスはかわいそう、情けないというのは単なる思い込みでしかない。勝手な自我の産物だ。

あの宴会にビールでも持っていってお仲間に入れてもらうと、どんな気分かわかるかもしれないなどと思うがそんな勇気はないのでやったことはない。

人は立場によっても、あっという間に自分の立ち位置が変わってしまう。7月にコロナ感染者が100人に行くか行かないかの頃に自宅の福岡でしばらくテレワークをしていた。その間に東京のコロナ感染者は急増をして300~400に増えていった。

つい数日前まで住んでいた東京が大変な危険地帯に思え、脱出できたことがありがたかった。東京の危機がいきなり他人事になっているのが自分でわかる。あっちとこっちが入れ替わった瞬間である。

当初福岡自宅でのテレワークは3週間の予定だったが、会社に延長を求めた。安全地帯にいると思うと戻りたくはない。仕事の都合で延長はできず東京に戻らざる得ない時には、エアバスに乗る時には戦地に赴くゼロ戦に載る気分だった。「俺、生きて戻れないかも」という感じ。

東京に戻って、感染危険地帯に住む時には、コロナで死んだとしてもそれは寿命であると腹をくくった。逆に寿命が来るまでは何しても死なないという論法である。そう思わないと暮らせないし、実は私は運命論としてはそういうものだと思っている。

埼玉に仕事も自宅もある友人がSNSで、東京なんて当分は危なくて行けないなどと書くが、こっちは東京と埼玉なんてそんなに変わらんだろうなどと思うが、あっちから見ると大違いらしい。人なんて勝手なものだ。

人の数だけ、あっちとこっちがあって、自分の立ち位置すらコロコロと変わる。人生とはそういうゲームなのだ。残念だが人は他人の立場に完全には立つことができないというのが、このゲームのわかりにくいルールである。