メディアが人を不幸にする?

テレビやインターネットは文明の利器としては大変便利なものである。世界中の情報が瞬時に世界中を駆け巡る。

幕末に外国を見聞することを夢見て、最新の情報を触れようとするために、投獄後に死罪になった吉田松陰先生が今の世を見たら、泣いて喜ぶような代物である。

情報は戦争やビジネスでは重要である。その事例を挙げれば、枚挙にいとまがない。

「情報は人間を熱くする」これはリクルート社の昔の企業広告のキャッチコピーである。たしかに情報は人を熱くする。そして、見事に情報化社会の花は咲いた。しかし、ナイフが料理にも殺人にも使えるようにどんな道具にも功罪がある。情報はとりわけ危険な武器となる。

何年か前のこと、秋口の北海道でお父さんが聞き分けのないことをいう息子をしつけするつもりで、山道で車から降ろすということをした。たぶん、少し脅すつもりで車はすぐに引き返しただろう。しかし、幼い子供は1週間ほど捜索もむなしく見つからなかった。

子供が見つかったのは自衛隊の施設で、施錠がもれていた施設のマットレスにくるまって生きていた。秋口とはいえ、北海道であり、屋外にいれば命はなかっただろうから、これは奇跡的である。

父親は世間から叩かれて、謝罪会見するような状況になった。テレビ番組は尻馬に乗って、父親をバッシングし、ご丁寧に世界各国からも非難が上がっていると全く関係ない外国人のネットのコメントを紹介する始末であった。

幼い子供を不用意に山道で一人にしたことは父親としては許されることではない。また、多くの捜索員に迷惑をかけたのも確かだ。しかし、1週間近くも子供が見つからないことで一番つらいのは子供本人と父親であったに違いない。ましてや地球の反対側からとやかく言われる筋合いではない。

それを視聴率狙いで面白半分に煽り、父親バッシングしたテレビ番組はこの世から消えてしまえと思ったものだ。

インターネットは世界中の情報を瞬時に世界中に伝える。昔なら知らずにすんだことを、不必要に知れるというデメリットも同時に存在する。

子供が行方不明になった事件については、子供に危害が及ぶ風潮が増えた場合に自分に迷惑が降りかかることを嫌うので人はその人を非難する。特に子を持つ親がそういう正義感を振りかざしたくなる気持ちは私もわかる。

ただ、正義感というオブラートに包むのでわかりにくいが、そんなものは正義でもなんでもない単なるいじめである。さらに言えば、イギリスやブラジルに住む人には迷惑のかかりようがない問題である。痛みを共感してくれるのは有難いが、単に非難をしてくるなら、大きなお世話でしかない。

もし、子供に万が一のことがあれば、父親は普通に一生苦しむことになる。それを世間からバッシング受けたら自殺も考えるだろう。

これが江戸時代の出来事であったらどうだろう。蝦夷の山の中で、父親の不注意で子供が行方不明になった。村の男は総出で捜索をした。1週間後に子供は生きて見つかった。このニュースは村中には伝わり、顔見知りからは父親はお叱りを受けるだろう。

では、松前藩の藩主にそれが伝わったり、幕府にそれが伝わるかというと、たぶん伝わらなかった。当然、エゲレスやオランダの父親、母親から文句を言われることもない。無駄に情報が広がることは、メリットだけでなく、デメリットもある。

日々のニュースでは日本中の凶悪犯罪やコロナ感染者や死者の情報を運んでくる。それをテレビはセンセーショナルにまくしたてる。私の実際の知人には今のところは一人もコロナで死んだ人はいない。しかし、「死ぬぞ、死ぬぞ」とテレビは毎日言ってくる。

情報を伝達することは重要であるし、便利であるのは間違いない。しかし、向き合う時の感情は不安や恐れ、心配で対応をしてはならない。ましてや、恐れを利用した情報操作、世論操作などしてはならない。

テレビ局の人だって、悪気があってそれをやっている訳ではない。ただ、視聴率を取るためには、自社の利益のためには仕方がないという言い訳をする構造になっている。

これはテレビに限ったことではなく、インターネットの掲示板やSNSでも同じことである。

我々は皆が自分たちがどのような危険な道具を使っているのかを知っておく必要がある。情報とは適度な距離感を置いた方が、たぶん良いのだろう。