「空」のオールマイティ感

Facebookで見つけた高山剛さんの開催する仏教に関するZOOM講座に参加をした。テーマは「空について」。普段考えているような「空」や「悟り」についての感じ方が似ていたので、私にはわかりやすかった。

「空」の説明で「オールマイティ感」という言葉が妙に耳に残った。仏教の話なのに所々英語になるのが新しい。オールマイティ感という語感が「全能感」「なんでもできる感覚」を連想をしたので、どうにもピンとこなかった。

講座が終わり、シャワーを浴びている時に、例のインスピレーションが降って湧いた。イメージなので言語化が難しいのだが、それをなんとか書き留めた。

「なんでもできる」全能感ではなく、「何が起きても大丈夫」というオールマイティ感である。全能感は自我が求めるやりたい放題のイメージで、それは小気味の良いものだが、そんな自己啓発にでてくるような都合のいいイメージではない。「何が起きても大丈夫」というのは、「死のうが、生きようが」「良かろうが、酷かろうが」「不幸だろうが、幸せだろうが」どうあってもいい。どうしようもない、残念なまでの、あらがいようの無さ。

人生でどんな悲劇にあっても、つらい目に会おうが、痛い目に会おうが、すべては順調、全受容の体制である。

ああ、20代の頃、気功を始めた当初にあったインスピレーション、「こだわりは良かろうが、悪かろうが、すべては邪気を生む。」「何が起きようが、どうあっても良い」というのがあったが、私にはおなじみのアレである。またなのか。

若い頃の私には言葉の意味はわかっても、全く実感が伴わない。今でも、頭ではわかっても実感は少ない。そもそも、肉体を持つ身で、本能があっては、そんなものを簡単に受け入れられる訳もない。

例えるなら、自分は間もなくガンで死ぬとわかっていて、ガンによる激痛すらも生きている証として、愛おしさを感じるというような受容性の高さであろうか。人間そんな風にできるなら、今すぐにキリストになれる。

ただ、内なる方位磁針は凝りもせず、ソレを指すわけである。orz

全受容の境地、あるがまま、なされるまま、すべてはALL OK。

自我が言う。ああ、気持ちが悪い。