グローバリズムとは地球を一つと見なす思想である。世界が協力をしあう共同体であるならば良いのは確かである。
所がそれにかこつけて、グローバリゼーションを掲げてアメリカを中心とした勢力が正論に掲げて、世界中を経済的に蹂躙、支配をするようなイメージを私は抱いている。
アメリカという国は多人種、多民族、多宗教の寄り合い所帯であったために、意思統一には苦労の歴史がある。まったく、文化、慣習、宗教が違う人々がまとまるには正論によって、一つの旗の元に集まる術を見つけた。それは素晴らしいことだ。
しかし、それを世界を支配するための武器に使おうと考えた輩がでてきた。70年代から80年代に一度落ち込んだアメリカはその武器を使って90年代には勢いを取り戻した。そして、先進国の王としてまた世界中から収奪を行い続ける。
地域に根付く文化や慣習に従ったローカリズムは、その地域の事情にフィットはしているものの、排他的なことが多い。ローカリズムが必ずしも良いものとは限らないが、正論を掲げて世界支配をしようとする連中も全くイカシてない。
世界の人々がすべてが公平であるべきで、「我々」も公平に受け入れられる”べき”という正論を押し付けてローカリズムを破壊して侵入いくのが、グローバリゼーションを武器にする人々の常套手段である。
たしかに、人々は公平であるべきというのは正論であり、めざすべき所である。
ただ、それを新たな支配の武器として、己の利得のためだけに使っているという意味で、現在グローバリズムを掲げる人々には正義がないと私は考える。
地球がひとつで助け合いをした方が良いというのは確かであるが、それは世界が一つの支配者の元にまとまるという意味ではない。
世界は多様性にあふれており、その多様性をお互いが受け入れ合うことこそが、ONENESSになるという意味である。人々が競争ではなく、愛でつながるということだ。
現在、武器として掲げられているグローバリゼーションでは、お互いを認め合うのではなく、一つのものに強制的に統一をしていく力が働いている。それはエゴが作り出す、「〇〇でなければいけない」という思想が元にあり、大変窮屈なものだ。物質世界しか見えてない人にありがちなことだ。
その結果は、ごぞんじGAFAに代表されるすべての富が一部の企業に流れ込み支配力を強化する顛末となっている。さらにひどいこととしては、アメリカの企業というよりも、世界企業という国からも逸脱するような存在と化している。
これがただただ世界の人々の幸せに貢献する存在であれば良いのだが、決してそうではない。他を排除して自分だけ太っていく。
我々は、便利だからと気軽にamazonで買い物をし、appleの端末を使い、googleで検索をするが、もしかしてそれは大変な間違いではないのか?などとふと思う。
彼らは悪なのか。たぶん、本人たちは自分がすべきことをしているのだと思っている。競争社会では勝ち抜くことだけが、正解なのだから。
ナチスの官僚は役人としてすべきこととただ粛々とやっていただけだ。ただ、お上からの命令がユダヤ人の虐殺であっただけなのだ。人が歯車と化す時に起きうる悲劇である。
今、この世界ではまさに多様性をカミングアウトをしあうような動きが出ており、それを受容しようとする動きがある。マジョリティでないものは切り捨て、矯正するのではなく、マイノリティを含めた多様性をそのままに受容をするのだ。
しかし、「世界はひとつ」を掲げて、一つの思想の元で全体を支配をしようとする輩が片方でいる。それは大きな流れに逆行をしているようにも思うが、まだまだ主流の動きである。
8対2の法則が働くとした時に、2割のリード層がいて、どっち付かずの6割がいて、8割を形成する。そして、マジョリティになりきれないマイノリティが2割がいる。
現在のリード層が2割を割り、マイノリティが2割を超えていくような動きになる時に、どっちつかずの6割は新たなリード層となる旧マイノリティに付くことになる。すると主流は逆転する。
世の中の常識が逆転をするのは、ある日突然に起きることになる。さあ、支配的なグローバリズムなど打ち捨て、多様性を受容していこうではないか。
ひとりひとりが、多様性に目覚めていくことで世界は変わる。
なぜなら、人など一人一人が全く違っていて、多様性の塊なのである。よく見るとそれぞれ全く違うのだ。それを同じように統一しようとするのは無理がある。