運命に身を任せる

ビジネスをしていると、「事前に考えに考え抜いて、未来を思い通りにしろ」みたいなことを言う人がいる。まあ、下手な考え休むに似たりのようなこともあり、そんなにうまくはいかないものだが、相手が上司だったりすると反論もしにくい。

ビジネスというのは、無理に見えることをできるようにすることであると考える人も少なくはないので、言わんとすることもわからなくはないが、最終的には無理は無理と思わずにはいられない。

私は経験から、「物事はなるようになるし、なるようにしかなからない」と思っている。決してあきらめるわけではないし、現世では行動をしないと何も起きない仕組みであるのは承知している。できる範囲のことはするが、それ以上はできない。

気を読むと、どうも運命的なものがどうしてもあるように感じてしまうので、そういう思いに至っている。

ビジネスで剛腕をふるうタイプの人は、事前に考えて力ずくでやればなんでもできる(はずだ)という幻想を抱いているが、それはその人が比較的恵まれた人生にとどまってこれた証でもある。もっとも、苦悩に対する耐性が強いこともあるかもしれないが。

私自身はメンタルの問題で、どうしようもなく苦しむ期間を経験したものの、自分が考えて行動して何かがうまく行った訳ではなく、時期が来て何かに導かれて、たまたまうまく行った。単純にそう思う。

自分が苦しみから逃れられたのは、もちろんいろんな治療法を試した結果ではあるが、ご縁があって時機が実った”だけ”で、私がコンロトールできた結果だという実感は一切ない。私はそんなに不遜にはなれない。

これは人生全般についてもそうである。

たとえば、スモールビジネスが頓挫をして、借金で首も回らない状況になって、友人の勧めで東京に出てきた時。住むところもないし、仕事もどうなるかわからなかった。どうしようもなくなり、覚悟を決めて飛び込んだだけだった。

偶然の出会いとご縁がたまたま続き、なんとか住むところを見つけ、友人の尽力もあり仕事も見つかり、なんとか生活を立て直せた。これは私が何か偉かった訳ではまったくなく、一切コントロールなどできていない。ただ、流されただけである。

唯一私がやったのは、運命に身を任せることを覚悟したのみである。

私は小舟にのって、川を流されている。この先に急流があると恐れ、川辺の木の枝につかまっていると舟は進まず「この先に恐ろしいことが起きる」という光景をずっと見ていることになる。

「流れに身を任せる」と覚悟を決めて枝から手を離せば、しばらくは急流に翻弄はされるが、その後に緩やかな安定した流れに流れ着くようなことも往々にしてある。もちろん、滝があったりもするのだけど。滝壺から浮上してまた進み始めたりする。

人生という川の流れではゴールは大海であり、そこが「死」であるならば、そこに行きつく途上で急流になろうが、滝から落ちようが単なる経験に過ぎない。

同級生などに久しぶりに会うとそれぞれ種類は違うのだが、50年以上生きれば、皆が何かで苦労や苦悩をした経験があることがわかる。自分のことだったり、親のことだったり、子供ことだったり。経済的なことだったり、病気のこと、介護や死別など。お釈迦様の言うように人は四苦八苦して生きる。

たぶん誰もが苦悩とは無縁ではなく、人生の中で一度も苦悩をせずに生きられる人はいない。傍目に幸せにしか見えない人が、本人なりの不幸に苦しむケースもある。

皆が小さな舟にのり、その人のペースで川に流されている。

若い頃の私は川の流れに反発をして、自由に泳ぎ切ろうと思っていたこともあり、自分の力や考えでなんとかできると過信をしていた。

至った考えとしては、「川の流れには逆らわず、覚悟をもって流される」である。インシャアッラー、神の思し召しのままに、である。

「流されるだけの人生でいいんですか」とか「それじゃ負け犬だ」とか言われそうだが、それじゃダメなんですか?と思う。どうもそれに抗う力は私にはないようだ。