朝ドラ エール 最終回

作曲家、古山裕一(モデル:古関祐而)の人生を描いた作品。ついに最終回を迎えた。

冒頭で広松寛治という青年が古山を訪ねる。なぜお元気なのに新しい曲を書いてくれないのか?と古山に尋ねると「毎日降ってくる音楽を自分だけで楽しみたい」と答える。

私は芸術とは表現したいという衝動と究極の自己満足だと思う。突き動かされるように表現への欲求によって、誰かに認められずとも自分が良いと思うものを表現をするのが芸術だ。

人は個として生きる時に、本能にある承認欲求という不足感に苛まれる。しかし、すでに古山は十分すぎる名声を得ており、もう承認欲求に悩まされることはない。

若い頃は生活のために作曲をしたし、かつては他人に認められたいという承認欲求にも突き動かされた。しかし、金も名声も十分に得た彼は、外野の顔色を気にすることなく自分の中で音楽を楽しみたいと思った。

真の芸術とはそういうものではないかと思うのだ。

古山がそうなったのは、金と名声を得たのはその通りだが、音楽により自らが癒されたためであろう。不足感を手放せたのだ。

商業的に売るため創作家は、どんなに優れていても芸術家ではなく、商業作家である。売る必要がなくなった時に、誰に気兼ねなく自分の作品が作れる。それこそが究極の自己満足である。

芸術家の作品が売れることはある。それは他人の顔色を伺うことなく、好き勝手に作った作品がたまたま他人に欲しいと言わせたに過ぎない。しかし、売れるものをと考えて作った時点でそれは芸術ではない。

昔、リクルートの制作部にいた時に広告大賞を取るようなクリエーターの先輩が語っていた。我々は芸術家ではなく、広告を作っている。どんなに感動を呼ぼうと広告効果を出さなければ意味がない。芸術をしたければ、仕事をやめて自宅でやればいいと。

商業作家は売れなければいけないし、広告クリエーターは広告効果を上げなければならない。芸術家とは似て非なるものだ。そして芸術とは純粋に自分のために行うものである。また、どちらが良いとか悪いというものでもない。ただ、違うものである。

この芸術論は私の考えであるので、正しいかどうかはわからない。

社会では「自己満足」をあまり良い印象では語られない。しかし、自己満足上等であると私は思うのだ。

モデルの古関さんがどのような人生を歩んだかはわからないが、この主人公古山雄一は幸せな人生である。自分のやりたいことを早く見つけて、その道で自分と仲間と一緒に成功し、自分とやりたいことを極め、ともに一緒に歩みたい人とずっと共にいることができた。

ただ、この後に妻の音が先立つのだろう。その後はどうなるのだろう。

私の両親は父が先立ち、49日の法要の日に病床の母が旅立った。そのように夫婦が手を携えてあの世に旅立つのもまた悪くないと今は思う。

コロナ禍の中で放送をされたこの朝ドラは、歴史的にも災禍の中でいかに音楽が人を力づけてきたかを雄弁に語った。秀作であったと思う。