イヌとヒト

「イヌ 人類最古のパートナー」という番組で、オオカミから分かれて犬が人類にいかに適応してきたかを描かれていた。

個人的には犬より猫の方が好きなのだが、興味深い内容だった。

オオカミは群れを作り、人間に似た社会行動を持つので、人間と共に暮らすのに向いていたという。オオカミとイヌは遺伝子の違いはわずかだが、性質には明らかな違いがある。

人類が狩猟生活から農耕生活に変化していく中で、犬も肉食から雑食に適応していった。オオカミは穀物は消化できない。

これは人類自身もそうであり、環境に適応しながら遺伝子も書き換えてきた。海藻の消化酵素は日本人などにある特有のものらしい。西洋人には海苔は食べ物ではないという事になる。

犬は人の微妙な表情を読み取り、人間とのコミュニケーションにも適応できるようになっていき、家畜、ペット、さらには盲導犬や警察犬、軍用犬など様々な形で人類のパートナーとなっている。猫はどうなのだろうなどとつい思った。

面白いと思ったのは、実験で板に打ちつけた入れ物に入った食べ物を取ろうとする時にオオカミは自力でなんとかしようとして、なかなか諦めない。犬はすぐに諦めて人間にすり寄り、甘えることで目的を達成しようとする。

これは人間にもある。甘やかされて、苦労せずに来た人はすぐに諦めて人に頼るが、野生的な自分に厳しい人、なんでも自力でやろうとする人たちもいる。

どちらが良いかというものでもなく違いがあるだけなのだが、昭和の発想では自力崇拝が優等とされた。

そのため、私らの世代でも自分に厳しくすることを叩き込まれた。正直、生きづらさの元凶となっている。

さらに先輩方に至っては、他人に頼らず全部自力でやろうとする人たちが多い。

あれはオオカミ度合いが強いのだと改めて思った。ある意味で前時代的と言えるかもしれない。人類の進化が共感と協調にあるとしたらだが。

犬は同族でありながら品種改良によって様々な犬種があり、オオカミに近いもの、適応が進んだ犬種が現代に共存している。実は人類も見た目には差がわかりにくいが、いろんな進化度合いの人間が共存しているのだろうと思う。

犬は人間の目的別の品種改良が行き過ぎており、長生きに不向きだったり、人間の手を借りないと生きていけないような犬種が生まれているという。

愛玩用に体を小さくしたり、頭蓋骨の形を変えていったことで、生存や健康を害する犬種もあるというのだ。

それは人間の罪として業を背負っていく必要がある。ペットを気分で買って、飽きたら捨てるような事はしては申し訳ない。

人類も機能性優先で進化適応を望んでしまうと生きる事に向かない人々が生まれてしまうような気がする。生命は本来生きることこそが優先で機能性、利便性を優先するべきではない。そんなことを思わされた。