私は自分が本当にやりたい事ができる事が幸せなのだろうと思うが、その本当にやりたい事が正直わかってない。
先日、スーパーマーケットに行って、刺身を買おうと思ったが、まてよ寿司の方がご飯を用意する手間が省けると思って、刺身は見送った。所が館内放送で刺身は3割引と聞いて、つい刺身のパックを買った。
家に帰ってから、これば本当に欲しかったものだったのか?と思いつつ、大してこだわる事じゃないと美味しく頂いた。
別の日にその日はカフェに出かけて珈琲とケーキでも食べようかなどと思っていた。所が朝に近くのラーメン屋が朝ラーメンを安く食べさせるというツイートを見つけて、早速出かけた。朝の9時台からラーメンを食べる事は普通はしない。ラーメンは美味しかったが、胃もたれして夕方まで何も食べる必要はなくなった。
安さに釣られて、適当に妥協して選択をするとその後の未来も左右する。現実世界ではどうしてもキャパシティは存在する。
先に何か買ってしまうとお金やスペースの関係で、次に本当に欲しいものがやってきても、それを見送ることになる。
そうなると、自分が何を欲しているのかを把握しておいて、欲しくないものは見送ることが必要である。
3時にケーキとコーヒーを食べたいなら、その前に饅頭が安いからと言って買って食べてしまってはいけない。
こんな経験は散々しているのだが、安いものについ手を出してしまうのは、不足感への不安があるからだ。
うちの両親は戦時中生まれで、祖父は二人とも戦時中に病死している。父母共に戦後の焼け野原を母子家庭で育った。そんな人は当時は珍しくはない。
生存戦略として倹約は必要であり、息子である私たちにもよかれと思って、その精神は叩き込まれている。
しかし、その副作用は不足感への不安と恐怖が色濃く焼き付いてしまっている。つまり、貧乏性である。行動様式の中に自分が欲しい、やりたいよりも、生存戦略としての倹約が先に来てしまう。それは無意識にそうなっている。
私にとって自分が本当に何がしたいのかは、その壁の向こう側にあるに違いない。
せめて、日頃の些細な選択の時に安いから選ぶのをやめて、食べたい、欲しい、やってみたい、楽しいから、ワクワクするからという尺度で行動できるようにできると良いのだが。
孤独のグルメという人気ドラマがあるが、ランチの選定でもよいので、自分自身にわがままになる訓練が必要かもしれない。
勿論、人生において様々な思い通りにならない事はある。特に仕事などはなかなか思い通りにはならない。
だから、もっと些細な事からわがままになるのが良いのだろう。
したくない事をしたくないとスルーする勇気が必要なのだ。