非二元な世界では腹も立たない?

ネットの記事で石原伸晃議員がコロナ陽性無症状で即入院したことを特別扱いされたとしての非難が載っていた。

私もそれを見て、「国会議員が自分のことだけしか考えず、一般国民を押しのけて無症状入院するなんて許せない。一般の人は入院どころはホテルへも入れず自宅療養しているのに。」と怒りが湧いてきた。

一般人には自粛せよと言いながら、自分たちはホテルなどで会食をやめない国会議員先生方は多いという。感染した時は特権発動して、自分だけは助かろうとするのでは一般人が怒るのは当然の反応である。

私は石原伸晃議員というものをテレビでは見たことはあるし、多分存在するのだろうが、私からすると実際にいるのかどうかもわからない人間である。会ったこともないという意味でだが。

私の狭い世界には彼は元々存在しないのだが、ネットのニュースでいきなり傲慢で非道な政治家と言う認識として現れた。そんなものに心が荒らされてはたまらない。

自我が怒るのはある意味当然な反応として起こるが、それは本能がそうなっているからだ。

非二元的な世界ではすべての出来事は全体のストーリーの一部でしかなく、この現実という幻想物語のパーツにすぎず、常に良い話も非道な話も起きているがそれにはなんの意味もない。ただただ、さまざまな体験を紡ぎ出しているに過ぎない。

そんな視点に移行すると何が起きようと良くて、映画を観る観客のように見ている時は主人公に感情移入はしているが、実際は何も起きていないことになる。

もっとも、この幻想世界という奴は痛みも苦しみも全てライブ感がハンパなく、臨場感最高なので斬り殺されたらまるで自分が死んでしまうように感じる。

一瞥体験のような感覚に陥った時はまさに周囲が映画か何かのような感じだった。

自我(個別な自分)がまやかしと気づいた人なら、この世界で何が起きても腹も立たないのだろうが、私はまだ自我から抜け出てはいないなと思うのだ。

斬りつけられたら痛い世界で、全体の自分に目覚める日は果たしてくるのか?