ファイザーの元副社長

コロナワクチンの危険性を内部告発をして、副社長が辞めたという記事がある。コロナワクチンを打つと何年も生きられないともいう。

ファイザー、モデルナ、アストラゼネカはコロナ不況の中で、濡れ手に粟で億万長者を生み出している会社である。主任研究員でもあるこの副社長は本来ならウハウハだったはずである。

死の商人ではなく、自分は研究者なのだという矜持が彼を内部告発に至らせたのだろうか。

私も自分の触れられる範囲の情報を元に考えるに、コロナワクチンには消極的な判断をしている。まだ未承認のこのワクチンと呼ばれているものが、通常のワクチンとは明らかに違っており、その死亡率もはるかに高いことから、むやみに接種するのは避けたい。

ワクチンに対しての考え方は人により千差万別である。ある人は、皆でワクチンを打って集団免疫を作るということをしているのだから、協力をするのは義務だと考える。人によっては、ある情報に触れることで自分が役割意識だけでワクチンを打とうとしていたことに気づく。ある人はコロナウィルスの特性と変異の速さからワクチンの効果自体をを疑うという。

日本人はお上から言われることは絶対であると理解してしまう人も少なくはない。社会の一員としての役割意識が強すぎる人もいる。ある人は私がワクチンは避けたというと、「そんなに死にたくないの?」と言った。ワクチンを打つのも死にたくないから打つのではないのか?と思うのだが。それを聞いて、何かがおかしいなと思った。

社会というのはそれ自体が洗脳の産物であると思う。なので、多かれ少なかれ洗脳は入っている。しかし、死にたくないからワクチンを打つのでなければ、彼は何のためにワクチンを打とうというのか。たぶん、役割意識だろう。みんなで決めたからそれは守らねばならない。

もう一つ、面白い言葉を聞いた。「そんなことを言ったら、すでにワクチンを打っちゃった人はどうなるの?」そこにはすでにワクチンの1回目を打った人がいた。ある意味、心配りなのかもしれない。その人は自分の判断で打ったとはいえ、後出しジャンケンで重大な事実を聞かされたら大変だというわけだ。

しかし、だからといって、”考えたくもない事実”をスルーするのか?というと単なる思考停止な気がする。

ワクチンの問題は、たぶんその人その人でとらえ方は違うのだと思う。聞いた話では高齢者のある人が「自分はワクチンは危険だと思っている。しかし、自分たちが打って集団免疫を作ることで、これからの若い世代にワクチンを打たずに済むなら喜んで人柱になろう」と言っていたそうだ。

本当に人それぞれで考えは違う。

一つだけ言えることは、思考停止せずに、十分に自分なりの情報収集と検討をして、ワクチンを接種するかしなかを決めてほしいと思う。その結論がどちらでも私はよいと思う。さもないと、後悔をするような気がしてならない。