気の感覚と共感覚

世の中にはいろんな感覚を持っている人がいる。気が分かる人、霊とか龍が見えるという人など。

いろんなことを感じる人に出会ったが、気の感覚ひとつとっても、人によって感じ方は違うようだ。よく、手のひらで感じるなどというが、私もそのタイプである。中には、気が高いものを見ると光って見える人、何か音が聞こえた気がする人、匂いとして感じる人もいた。

気の感覚はいわゆる第六感といえるのだが、共感覚で五感のどこかで感じているわけである。共感覚というのは、匂いを視覚で色として感じたり、匂いを音で感じたりという感覚だと言われる。

だから、手のひらで感じにくい人でも、第六感が他の感覚にマッピングされているケースもありえる。そんな時は、五感のすべてでどう感じるかを確認すると意外な才能があるかもしれない。この手の感覚を持つ人は、実はそんなに珍しくはない。100人いれば昔は数人だったが、今はもっといるに違いない。もともと、誰もがもっているものだからだ。

そういったことへの心理的ハードルがここ10年ぐらいで急激に下がっている気がするが、それも手伝っているように思う。

霊視ができる人、いわゆる霊能者も私個人の意見としては、視覚に第六感がマッピングされている人であろうと思っている。その見え方は一通りではなく、人によってずいぶんと違うようである。これはいろんな霊能者に話を聞いた結果である。生きている人と見分けがつかない人も結構いるし、ぼうっとした影のように見える人もいる。

龍や精霊、天狗に天使などが見えるのもそうだろう。ただ、実際に眼で物理的にみている訳ではないので、その存在を自分の中のイメージに照合して認識するだろうから、日本人が天狗とみるモノを外国人が天使とみることはあるに違いない。

だから、ある人が龍と言っているものが、別の人が見ると宇宙人として見えても不思議ではないのだろう。自分の中に神がいる人は神が見え、宇宙人がいる人には宇宙人が存在する。

私は他人がいうことはその人の世界では存在するのだと考える。だが、自分が感じないことは私の世界にはないと思っている。他人がいうことはその人の世界感にすぎない。それを鵜呑みにする必要などない。内なる大いなる自分に問い合わせて、これが有りか、無しかを判断をすればよい。

そのモノが龍であろうが、宇宙人であろうが、自分の人生に何か気づきであったり、癒しであったり、喜びを与えてくれれば、実はなんだって良いのだ。イワシの頭も信心からである。所詮は神の悪戯の産物にすぎない。