パラリンピック

うちの奥さんの兄と義姉は車椅子バスケットボールのパラアスリートだった。特に義姉はシドニーパラリンピックで銅メダルを受賞している。日本の車椅子バスケは女子のみが銅メダルを2回取っている。東京ではホームであることもあり、男子も含め期待は高まるという所だ。

シドニーの頃はオリンピックへの注目とは裏腹にまったく世間の注目はなかった。それに比べると、現在の注目度は目を見張るものがあり、隔世の感がある。

パラリンピックの選手たちはオリンピックの選手のように手厚いスポンサードによって支えられることは稀である。世界中から日本に来ること自体が物理的にも経済的にも大変である人も少なくない。

コロナ禍の中での開催には是非はあるものの、パラリンピックの選手が大会に出場によって感じる救いはオリンピックの比ではないであろうことから、開催ができたことはすばらしい。日本がこれだけの負担を払って開催した事が未来のすべての人にとって実りあるものになることを期待したい。

パラリンピックに参加する選手は一人ひとりがその障害の度合いは違うことから、本来は比較のしようもないものを比較して競争をしている。それは一人ひとりが可能な限りを尽くせば、実はメダルの有無は関係はない。参加するだけで、人並み外れた努力の結果である。それを讃える場となるなら、それは素晴らしいと思う。

最近のパラリンピックを見ていると別の事も思う。義手、義足、道具などの発展は別の未来の可能性を感じさせる。義足で高速で走り、跳ぶ選手を見るにこの先に義手、義足はますます精密な機械に変化していくであろう。

パラリンピックの一部ではサイボーグが競争をするようなセクションも現れるのではないだろうか。車椅子も今は電動車いすを使う人も増えている。電動車いすを脳波と連動させて競技する人も近い将来必ず出てくるであろう。

そうなった時に全員ではないであろうが、弱者の競技ではなくなり、健常者よりも強靭なボディを持つ人たちもここに出場をするかもしれない。もっとも、従来のパラリンピックとは一線を画すことになるかもしれないが。

おっさんの単なる妄想に過ぎない。(笑)