ノンデュアリティのroomをclubhouseで開いていた時に来た人に、昔は日本語には愛という言葉がなく、愛に当てた言葉は大切だったと言う話を聞いた。
その時、なるほど若い頃の私は正しかったのかと改めて思った。結婚した後に私は家族をとても大切に思っていると認識はしていたが、果たしてそれが愛しているのか?と言うのがわからなかった。そもそも、愛がなんなのか?がわからなかった。そんな自分が何か不完全なもののように感じていた。
愛と愛情もニュアンスが違う気がしていた。映画やドラマで扱う愛というのが、色恋の話ばかりで言葉の定義がよくわからなかったと言うこともある。
議論の際に好きはわかりますか?と言う問に対して、好きは、例えば恋愛における好きはどうしようも無く相手に引かれてしまい、頭から離れない状態でやや依存すらある様子であると答えた。これはモノに対するフェチでも同じであろう。愛着ホルモンの暴走の結果である。
私自身は何かが好きなってのめり込むことを極力避けてきた。趣味人の弟がいろんなものにのめり込むのとは対照的だった。それでも恋愛については自身の感情を制御不能になる苦しみを何度となく味わってきた。男なんて言うものは元来惚れっぽいものであり、相手から受け入れられるなんて言うのは稀である。その多くは苦しみとなり、自我があるからこその問題とも言える。
愛というものの解釈において、私は好きなだけでは愛とは呼べないと思っていたのだと思う。キリスト教における愛を日本語に置き換える時には宣教師が選んだのは御たいせつと言う言葉だった。それは私にとっては納得のいく解釈だった。
随分と昔に悩んだことの答えが、やっと腑に落ちるものとしてやってきた。時機が来たのだろう。