寂しさの目的

私はひどく寂しがりであると思う。それはセルフカウンセリングで何度も統合することを試みているが良くなっては舞い戻ってくる。

私はどこかで仲間に馴染んではそこから一人で旅立ち、最後は必ず一人になるという運命を繰り返してきた。さよならだけが人生とはよく言ったものだ。

私にとっての仲間とずっと一緒いられる居場所を作るのが夢みたいな所がある。

私のハイヤーセルフにとっては次から次へと新しく始まる冒険が御所望のようだが、私の自我はずっと同じ所で常連さんの仲間と一緒にぬくぬくとゆったりとした時間の中で生きていたかった。

私のハイヤーセルフと自我はまったく相性がミスマッチである。それこそが苦しみの根源かも。

個という分離意識を体験するためにこの世に生まれてきたのだから寂しいのは当然である、寂しくない人は別のテーマで手一杯であるから寂しくはないのだという話を聞いた。

寂しさ自体が生きる目的だとすれば寂しいのは仕方がないかと思う。寂しさ自体は自分が望んでいる本願なのだから。

なんと救いのない話であろう。気休めにもなりやしない。