私は明らかにお金に関してのメンタルブロックがある。何度もブロック外しを試みてはいるが、それは根強くて、綺麗さっぱりとはいかなかった。
お金を戴くこと、お金を使うことに何かハードルがある。例えば、仕事上や羽振りの良い友人から奢っていただく事があるが、嬉しいより先に罪悪感が先に立つ。申し訳なくなってしまい、それが引け目になる。
子供の頃から水戸黄門などを見て、金持ちは悪い奴だと言う洗脳は受けているし、お金は人を堕落させる汚い物と言うイメージもあった。その辺は大分と解消はしているはずである。
私がよくお金の動きに対して、理由、必要性、合理性を求める。必要なものは買えば良いとか、お金を受け取るには理由が必要とかである。
どうやら私の中では、お金は条件付きでないと動いてはいけないのだ。
この考えはどこから来るのか。まずは親である。その大元は名古屋人の考えではないかと思い当たった。
名古屋人というのは普段はケチであり、何か冠婚葬祭のようないざという時には金に糸目はつけないと言う。そこに求められるのは必要性や合理性である。
また、両親が比較的早逝したこともあり、爪に火をともして貯金する所は散々見たが、早逝ゆえにあまり大盤振る舞いする所は見てはいない。
お金と言うものは、利害と合理性、必要性で動くことは多いが、必ずしもそうではない。好意で奢ってくれると言うのはその最たるものだ。
相場やギャンブルにおいても、合理性を装った理屈はなくもないが、実はそこに必要性も合理性もなく、偶然の産物である。それでも、金は動くのだ。
私はお金の流れに勝手に法則的なモノを見ていたのだが、実はそんなものはないのかもしれない。
条件付きにすれば、無条件の豊かさには、通じる事ができない。
気エネルギーなら無条件に無限のエネルギーを得ることができると思っている私が、お金のこととなると冴えない。
これが原因なのか〜と思った。