初夢:ありのままを受け入れる

今年の初夢は見たことは見たのだが、例のごとく書きとめようとするとボロボロとイメージが崩壊してしまった。ただ、その要旨は「ありのままを受け入れる」であった。それだけ覚えている。

夢の内容は忘れてしまったが、それと同じようなインスピレーションが年明けから来ているのでそれについて書いてみよう。

起きることはすべてが正しく起きている。なるようになるし、なるようにしかならない。可能性の時点では揺らぎがあるが、起きたことは起こるべくして起きている。

人は少しでも自分の都合の良い未来を望み、未来を自分の都合の良いものにもっていこうと努力する。ありのままを受け入れるというのは、自分にとっての価値観に関係なく、それで良しとすることである。諦観であり、「インシャアッラー(神の思し召しのままに)」の境地である。何が起きても大丈夫だ。

だが、自我はそうはいかないだろう。生存本能は自分が如何によく生き残るかのみを考えさせようとする。少しでも良い状態を望むことは”一般的常識”では良いことなのだ。社会とは自我の集合意識である。自我が是とすることは社会は是とする。

積極的に「良いこと」を望まないことがありのままを受け入れるのであれば、一般的な価値観ではとても良いとはいえない。後ろ向きであることは否定される。良いことは良くって、都合の悪いことは悪いと言われる。実はどうあっても良いのではないか。

「良いこと」に消極的にも否定的にもならず、積極的にもならない。中庸であることがその答えではないかと思う。全てにおいて、前のめりにも後ろのめりにもならない。夢で見たのはそういうことだったのではと思う。

仏陀は天上天下唯我独尊と言ったとか言わなかったとか。天上天下に我が唯(ただ)独りで尊くある。ただあるのだ。良いとか悪いとか、どうあれ、こうあれと考えず、ただいて良い、ただあればいい。

居場所のないと思う人にとって、「そこにいていいんだよ」という言葉は救いになる。

社会は人を利用価値で観るが、本来は人は存在価値で観られるべきなのだ。