中庸とは何か

道教、仙道などでは中庸、仏教では中道というものを説かれる。陰と陽のはざまであり、全体安定の境地である。

太極図は陰と陽が完全にバランスをとっており、太極図そのものが中庸を表している。

私は気功を習った時に、陰(邪気)を陽(正気)で浄化、バランシングをすることを師匠から学んだ。
しかし、邪気という気があるわけではなく、気が足りてない状態の気虚が邪気である。邪気を嫌って、正気を好むのは間違いであると気づくにはかなりの時間を要した。

中国の新しい気功の概念として、陰と陽に分かれる前の混元気というものがあると50代になって聞いた際に、私は目が覚めた気がした。

私は邪気か正気かを見ており、世の中に正気は少なく、邪気は多い。そんな世界を見ているとどうしても正気を希少とみなして、限りあるものとしてとらえていた。
陰と陽が分かれる前の気とはプラスマイナスゼロの気である。陰陽がバランシングした中庸の気と呼んでも良い。

それはすべての世界を創り出しているエネルギーそのものではないかとインスピレーションは語った。

私は希少な正気を使って、邪気を埋めるということをしていたが、そこには不足感と出し惜しむ感覚がどうしてもあった。

しかし、中庸の気、つまり混元気であればこの世界のいたるところにあり、それは小さな私にとっては無限に近似である。
その境地に至った時に私はエネルギーは無限に取り出せると今までも知ってはいても腑に落ちていなかったものが腑に落ちた。

その話を聞いた先輩がわかりやすい例えをした。「磨きに磨いた大吟醸を振る舞うのには覚悟がいるが、いくらでも湧き出る水道水を振る舞うのは簡単だということだな」と。その通りである。無限にあると思えば、いくらでも分け与えることができる。

つい思ってしまいがちなのは、陽(プラス)が良くて、陰(マイナス)が悪いという錯覚である。しかし、本来は中庸であるのが
一番安定をする。二元の世界では陰極まれば陽に転ずるが、その逆もしかりで、陽が過ぎれば陰に転ずる。太極図はそれを示す。

過ぎたれば及ばざるがごとしで、後ろ向きでもなく、少しも前向きでもない、完全バランスの境地はあるがままを受け入れること。それが中庸というものであろう。

リクルートの元常務で生嶋誠士郎さんという食えないオジサンがいる。彼は当時大量な採用された理系社員を情報ネットワーク部門で率いていた。

ネアカ中心のリクルートでネクラな理系社員はネクラであることがトラウマであった。生嶋さんは「暗い奴は暗く生きろ」と常に言っていた。後に本を出版したぐらいである。自分がネクラなら一歩もネアカに近づく必要はないということで、それが中庸であり、ありのままを受け入れるということだ。

それが理解できたのは私が50も近くなった頃であったと思う。

言うは易く行うは難しであり、今も私がそれができているわけでもない。