人間関係の正体

人間関係の正体はすべて自分の中で起きている妄想なのだと気づかされることがある。

私は子供の頃からどうしても他人の目を気にする所があった。今でも完全に自分軸で生きているかと言われると自信はない。他人軸の他人と言うのは私が勝手に作ったモンスターである。そんな人はいない。

人間関係のもつれは相手があることで厄介だと思いがちである。だが、それは自分の内にある何かの影である。

SNSで人間関係が面倒なシーンをよく見かける。リアルとは違って簡単にブロックできたりするし、それを多用する人も多い。仲良くしていたと思ったら、いきなりブロックされてその理由さえ分からず、落ち込んだこともある。

本来はちゃんと向き合って話をすれば、理解し合えるケースもあろう。しかし、それを手軽に投げ捨てられるのがSNSの付き合いだ。

SNSは限られた方法でわずかな情報のやりとりのみで相手の人物を認識する。あとは第三者からの情報を加味してその人物像を作る。しかし、どこをどうやったってそんな人物像など実像に近いわけもない。顔も知らなければ会ったこともない場合、さらには情報が加工されている場合、もうアニメのキャラと変わらない。そんな人物は存在しない。

SNSのみでの付き合いは夢の中の出来事であり、リアルには何も起きてはいないようなものだ。人間関係はまだ始まってもいない。その中で楽しむものである。

先日、医師を名乗る外国人とSNSでやり取りをしたが、ロマンス詐欺か、ナイジェリア詐欺かはわからないが、明らかにきな臭い匂いがした。

ではリアルではどうか。

若い頃、会社で問題があればお客様に会いに行けと言われたものだ。メールなどもっての外で、電話でも相手との理解は誤解を生みやすい。膝を交えて対面してこそ理解を埋められる。それは真実だと思う。

昨今、メールで仕事をする際にヒシヒシと感じる。クリティカルな折衝をする際にメールだけだと揉める。電話でも話したり、会ったことがあるか否かが大きい。さらには酒を酌み交わしたか否かも実は重要だ。

仕事では1年間メールでやり取りするより、一回飲みに行くことでできた人間関係が勝ることがある。

WEB会議で音声だけだと半年一緒に仕事をしていても人間関係など構築しようもない。1年同じ部署で働いていても隣のチームの人の顔を一度も見たことがなかったりする。

コロナ禍はさらにそれを過酷にしている。

人間関係とは自分の中で起きていて、自分の中で作り上げた相手の人間像に私が勝手にラベリングしているだけだ。それで好きとか嫌いとか思うのである。

実際にリアルで会ってさえも本当の相手なんてわからない。見る人によって人は別に見える。リアルな人間関係もまた自分の中の妄想と大差ないのだ。

しかし、ネットでしかやり取りをしない相手はその人間像を構築することすらままならない状態で人間関係ゴッコをしている。それしか出来ないコロナ禍は誠に難儀な世界である。

メタバースとか仮想世界とか言ってる未来は大丈夫なのだろうか?この世界は幻想だと学ぶには良いのかもしれないが。