映画 えんとつ町のプペル

西野亮廣の絵本を映画化した話題作だが、今さらではあるが観た。

話題になった当時に西野氏の絵本は何冊も読んで感動した。一部の絵本や映画には歳を重ねて見るたびに新しい気づきを得られる良作がある。子供でも楽しめるが、大人が観るとまた気づかされることがある作品だ。絵本、映画共にプペルもまたそれである。

作品の流れは観てもらうとして、私が面白いと思ったのは設定である。えんとつ町が外界と閉じて厳しい支配を受けている経緯が実に考えさせられた。

昔、お金は目減りしなくて支配者に集まり貧富の差が拡大した。(今の現実の世界がこれだ)レターという人物が時間が経つと腐るお金を作り出すと、お金は貯めておいても腐るので皆が使って、お金が循環して社会は上手くいった。しかし、元々の支配者はそれが目障りで争いが起きる。レター一党は町をえんとつの煙で覆い、外界とは断絶した。

プペルの時代はレター15世の時代だが、強い支配力で外界との断絶を守り、市民を虐げていた。

もともと、レター1世は市民に平等を与え支配者に抵抗をするために、腐るお金を作り出した。しかし、子孫はその市民を虐げる側に回っている。

私も若い頃から、お金が目減りするようになれば、社会はうまくいくと思ってきた。しかし、この映画は1周先を行っている。

どんな良いことでも、変化を受け入れないと陳腐化し、腐敗する。特に政治体制はそうである。

ソビエト連邦は王政を排除し、マルクスの理想に基づき民衆の平等を目指して、成立した。しかし、人間がまだ共産主義を運営できるほどは精神性が進化していなかった。

生み出したのは、役人の横暴、平等の賃金が貰えるならいかにサボるかしか考えない労働者、最後はプーチンのような独裁者である。王様を追い出しても役人が独裁者化しては意味がない。

人がもし真に自分と他人を公平に扱えるなら、共産主義の方が競争による資本主義よりもうまく行くだろう。競争原理に基づく資本主義は20世紀の時点で限界はみえている。ただ、乗り換える新しい社会体制が見当たらないだけだ。

人間は愚かゆえに、どんなに良いつもりで始めたことも、やがては陳腐化して、腐敗する。必要なのは勇気をもって、変化に対応していくことである。

プペルの映画でも最後には社会が変化に対応しようとする。

失われた20年の象徴である安倍元首相が昨日暗殺された。暗殺が起きたことはとても残念な話である。彼は良くも悪くも歴史に残る稀代の政治家になった。

それは日本も変わらなければならない時期が来たと言うファンファーレ、狼煙ではないだろうか。