自意識が自分を動かしているのではない?

カズレーザーのTV番組で、意識が見ている世界は0.5秒遅れている過去の世界だという話をしていた。これは我々の自意識が自分を動かしているのではないということだ。

自分が見ていると思っている世界は実は0.5秒前の過去の世界であるというのは、体も電気信号で動いており、ディレイが発生しているというのは理解としてわからなくもない。衛星放送とか、国際電話で遅延が起きることは経験がある。しかし、0.5秒というのは実感としては長すぎる。

もし、そうだとすると矛盾が生じる。ピッチャーが投げた玉をバッターが0.5秒遅れの映像を見ながら、打てるわけがない。ボールが見えた時にはすでにキャッチャーのグローブの中にあるからだ。

最新科学で実験すると自意識が認知するよりも前にも脳からバットを振る指令が出るという。それは無意識のなせる技であるということだ。無意識はボールが投げられた映像をみる前にバットを振れと指令を出し、さらにボールに当てていることになる。既存の常識ではあり得ない。

気の世界では個は集合意識につながっており、離れていてもリアルタイムに伝わる。時間と距離は関係がない。だから、遠方であっても名前や写真だけで地球の裏にいる相手のリーディングができる。

ピッチャーが投げたことを目で見て認識するより早く無意識経由で認識して、無意識が体を先に動かしているという異様な風景がそこには見えてくる。

これは自分が自分の体を動かしているのではなく、無意識、もしくは無意識の向こうにいる何かによって自分の体が動かされているに他ならない。それは自分は自分の意思で動いているのではなく、ただ動かされているのだ。

「外角低めに来たので、私はバットを思い切り振って打ちました」というのは、体が勝手にボールを打つのを傍観者としての自意識が見て、頭の中で作り出した創作ということになる。自意識は本当は何もしてはいない。

そもそも、心臓をはじめとする内蔵、細胞の代謝、免疫などは無意識によって動かされている。人の体で意思によりコントロールできるのは呼吸ぐらいと言われているが、意志によるのも含めて全ての行動が顕在意識によってではなく、無意識で動かされているということになってしまうのだ。

イスラムの言葉に「神の思し召しのままに(インシャアッラー)」という言葉がある。全ては神の意志で動かされているので自分がやっているのではないという感じなのだが、この最新の科学からくる知見はこのインシャアッラーが正しいということを示している。

人はこの世界の幻想という映画を見ながら、自分がこれをやっているという錯覚をしている事になる。それは子供が自動運転の遊園地の乗り物に乗って、何にもつながってないハンドルを切りながら、自分で運転をしている気分になっているようなものだ。

以前に一瞥体験らしきものを経験をした際に、自分を含めた全ての人が、何かに操られている操り人形のようだと直感したことがあるが、あれがむしろ逆に正しいのかもしれない。

実はこの事で私はそんなには驚かない。人は何かを思いついたり、したくなって、行動を起こすのだが、そのインスピレーションはどこから来ているのか?とかねがねと思っていた。たとえば、人を好きになろうと思っても自由にはならず、無意識の向こう側から来るようなものだ。何かを食べたくなるのも、自意識でどうにかなるものではない。そのようなインスピレーションによって行動のきっかけがやってくる。それが人を操っている主であろう。

私たちの生きている世界は私たちが感じているのとは、実は全く違った世界なのかもしれない。