言葉と音楽の才能

clubhouseで東京に住むスリランカ人の方に出会った。日本語があまりにも上手なのに驚いた。

言語が上手いというのには、語彙力、文法、発音などの要素があるがどれも完璧である。特に発音が日本人のそれそのものだった。

日本語の上手な外国人はいるが、語彙力、文法は完璧でも発音はどうしても母国語訛りがでるものだ。その辺にいる日本人のように話すのは、子供の頃から日本に住む外国人とか、ハーフの人ぐらいのものである。

ところが彼は東京に住んで1年だとか。その前に何度も日本に来た事があるが、日本語の習得はスリランカでしている。

私はなぜそんなに発音の再現ができるのか?と聞くと、両親が音楽をやっていて、自分も音楽は得意だという。なるほど、音楽の才能と発音の再現力の才能は近いのかもしれない。

私は外国語がとても苦手である。聞いてもそれを声で再現するのが苦手だが、そもそも日本語でも最近流行りの早口の歌なんて歌えない。日本語を聞いて声に出すのも早口だと再現力は苦手。子供の頃に歌唱、演奏ともに苦手で、ハーモニカ、縦笛など苦労をした。音楽の才能は私には皆無だ。

昔、JEROというアメリカ人で日本人クォーターが、黒人の演歌歌手ということで人気だった。彼が日本に来た頃は演歌の発声が日本人そのものであったのに、日本語がまるで話せなかった。ただ、演歌の発音の完璧さに驚かされた。

音楽や俳優をやっている人は英語がすぐに上手になるようだが、皆が私のように苦労をしても上達しない訳ではないと薄々は気づいていた。きっと言語才能というものがあり、音楽が得意な人の方が言葉の習得も早いのかもしれないと思った。

人の才能は細かいところで、かなりの差がある。今回会ったスリランカの方はそんな才能に恵まれているのだろう。

また、前世が日本人だったような人もいるかも知れない。以前にyoutubeで外国人ではあるものの、日本語の発音はおろか、日本人の感性、文化まで、その辺の日本人よりもよほど詳しく理解しているような人がいた。あれほどになると、前世の慣れでもあると言われたら信じてしまう。

得意不得意、得手不得手は実に個人差が激しく、実際にやってみないとわからない。より多くのことをやってみると多かれ少なかれ、得意な事があるものだ。初めてやったのに、苦もなくできることがあれば、それが才能だったりする。

当たり前に出来る人はそれが誰にもできるように錯覚することがある。実は才能は本人にとっては当たり前の事の中にあるのだ。

自分が当たり前のように苦もなくできることの中で、よく見ると他の人が苦労をしていること。それが才能である。