漫画デビルマンの神と悪魔の構図

永井豪のデビルマンの漫画は世界中のアーティストから絶賛される作品である。私はアニメのデビルマンをリアルタイムで見た世代で、勧善懲悪ものの作品であったことから、後に漫画を読んだ時にこれはなんなんだと思ったものだ。

ネタバレになるので、読んでない人は先に漫画を読んで欲しい。

アニメではデーモン一族と呼ばれる怪物と悪魔の力を身につけた不動明の戦いを描いた作品でとても子供にもわかりやすい勧善懲悪物語であった。敵味方のどちらも人間で、どちらにも正義があるというアニメは機動戦士ガンダムを待つことになる。

漫画のデビルマンでは人間自体が悪魔よりひどい所業するのを描きつつ、人間の最大の敵は神であることを最後に描いている。

ラストシーンでは人間と悪魔の連合軍が人を滅ぼそうとする神と戦い、デビルマンは引き裂かれて終わる。さらに神すらも完全ではなく、愛する不動明、デビルマンを失って悲しむサタンを描いている。

人は善と悪の両方を持ち合わせており、悪魔のようにもなるし、神のようにもなる。そこにダメ出しした神は人を滅ぼそうとするわけだが、それを救おうとしたのは悪魔の方である。人は悪魔を忌み嫌い、神を崇めてきたにも関わらずだ。ある意味、衝撃的な話である。子供の私には全くそこまでは理解できなかったのだが、今なら理解ができる。

善なる心とは他者を慈しむ心であり、悪とは自分だけを愛する心である。社会においてはとりわけ善を持ち上げるが、悪もまた人間には必要である。生物としては自分を守る生存本能がなければ、個体はおろか種族もろとも滅ぶのだ。個人としても、他己を大切にする前にまず自分を大切にするべきだ。己の為に過剰に他者を貶めることがよろしくないだけだ。

デビルマンでは神が決して人の味方でもないということで、世の中の常識をひっくり返してくれたのは実に面白い。

この点では、石ノ森章太郎の人造人間キカイダーの漫画でも同じようにこの善と悪の対立を描いた作品であった。善しか持たなかったキカイダーが人間としての完全体になったのは悪の心を持ったからという身も蓋もない結末になる。天才ですね、お二人とも。

善と悪が中庸であること、それがバランスの取れていることであろう。それは自分のことも他人のことも大切に扱うということである。

ただ、思うにこの三次元世界では肉体を持つが故に、自分を優先させがちなのはやむを得ないこと思う。それに罪悪感を持つ人がいるが、それは宿命として諦めるところである。

ブッダやキリストが、右の頬を打たれたら左を出せ、全てを捧げよというのはそもそも彼らが人ならぬ存在であり、肉体の縛りがなくなった仏や精神体であるからであろう。人の身であれば、叩かれれば痛いに決まっている。既にお陀仏になっていれば、痛くも痒くもない。そんな聖人のいう事を額面通りに受けとるのはよほどのマゾっ気がないと無理がある。

生まれ持って善と悪を持った身であれば、自分も大切にして、その余力で他人を大切にすれば良いのだ。それで十分である。ひたすら、良い人である必要などない。元々、良い人であれば、どんなに頑張っても悪い人にはなれないものだ。

もっとも、あまりにも自分勝手な人にはその逆をおすすめするが。(笑)