気持ち悪い現実

この世は幻想であり、自分が運命を切り拓くのではなく、単なる傍観者であることに気づくことは、虚無感と無力感に苛まれる。この状態はしばらくあり、多くの文学者はこれに耐えきれずに自殺したのではないかと思ってしまう。今私がそうはならないのは先に鬱病になって無闇な虚無感と闘って受け入れてきた経験があるからかもしれない。

アジャシャンティは悟りの途上でハマってしまう罠について書いているが、優越感、虚無感、無力感については見事にハマってしまったことがある。それは真の目覚めでない事を示すがそんな事は言われなくともわかってはいる。
あと、逃れられないのが、孤独感である。ものの本では、感情がほとんどないサイコパスですら、孤独感だけは不快だと感じるらしい。孤独は人の深い所の感情である。
この世に意味がないことは、自分で意味を与えるしかないということで、それの示す意味は絶望的な自由である。
人はなんのガイドラインもない自由にどう対応して良いかわからない。産まれてこの方、ずっと多くの枷に繋がれて生きてきた。砂漠の真ん中でどちらに行っても自由だと言われても、何をどうして良いかわからない。絶望的な自由に慣れてない自分を感じてしまう。しかし、それが本来の人間のあり様である。エゴが、エゴの集積である社会や常識が本来の自分を隠してしまってきたのだ。
人が道端で拾って石ころを大事に愛でて、それが幸せだと言ったら他のものは馬鹿にするだろう。しかし、本人が良ければそれでよいのだ。愛を注ぐ対象が、他者からも認められる美しい娘、家族、ペットでなくとも、石ころや想像の産物である2次元キャラであったとしても、まったく問題ないのである。
人が条件付きの愛の存在であるのは、そもそも自我による好き嫌い(フィルター)が存在するからである。自我がなくなって神のような存在になってしまうと、個別に愛するなどという概念自体が吹っ飛んでしまうことであろう。完全な無条件の愛というのは、石ころと人、家族とその辺の造形物はもれなく、そして同様に愛の対象となり、好き嫌い自体がなくなってしまう。
それは、普通の人間にとって耐えられるのだろうか。むしろ不安に思ってしまう。
人は人格というか自我があってこそ、あれが好きで、これが嫌いとか、これが楽しく、あれは苦手であるなどという個性が生じる。自我を脱ぎ捨てて、神のようになってしまえば、すべては対象として差がなくなる。つまりどうでも良いのだ。それはどうあっても良いのである。

気功を始めた20代に「全てはどうあっても良い」というインスピレーションが頭の中にやたらと来てたが、その意味がさっぱりわからなかった。その意味を知るのに30年を要してしまった。

そこまで考えると、この世で楽しむにはむしろ自我や人格は必要なのである。
そして、ふと思えば、人が自然とそのような状態になるタイミングはある。それが死である。
死んだら仏なるというのも実はまんざらでもなく、死ねば人格や自我は失われるので、すべてのことに対して愛の存在でいられる、まさに仏陀(目覚めた人)である。あれこれに対して好きだ、嫌いだという必要はなくなる。
悟ることは自我や人格がなくなることに等しいのかもしれない。
せめて、死までの短い間だけでも、この人格や自我をもって、楽しみたいというのが真実だとすれば、どうだろう。悟りの本質がもしもそれであるならば、悟りなど開く必要はないのだ。下流側に死があり、人は嫌でもそれに向かって流されていく。
もし、完全に悟ってしまって、自我のないような状態になるのであれば、生きている必要がそもそもないのである。人は生きているのであるならば、悟っても自我や人格は残しておいて、この世を楽しんでも良いのだ。
悟りには得るものもあるが、失うものもある。完全な悟りは死と同じである。仏となるというのは、そういうことである。一休禅師が突き抜けていたのは、そういう感性を隠さずに表現をしたからに違いない。
では、悟りとはしない方が良いことなのか?
人はどちらにしても、好むと好まざるとに関わらず、そちらに向かっていくものである。なので、特に怖がる必要もなし。
本来は人はいつ死んでも、いつまで生きても良いように、いつ悟ってしまっても構わないのである。
自我が強いと痛みが大きい、自我が小さなものになれば安息を感じるだろう。それだけであれば、悟りも良し、しかし失うものもある。そこを考えると失いたくないものはあるだろう。しかし、人はなるようにしかならない。ただ、流されるのみ。時期が来たら花が咲き、花が散り、実をつけるように、人は悟り、人は死ぬる。そういうものである。