平日の朝9時の多摩センター駅前で大学生らしき若者がアジアの子供たちのための何かを建設するための資金を寄付で募っていた。今月は財布が苦しいのと、誰も近寄ってないことを理由に黙って前を通り過ぎた。その実、100円では少ないのではないか?、でも1000円は寄付できないなどとメンツを考えて結局は通り過ぎる自分に自己嫌悪した。
あの3人の大学生があの場所に立って、いくらの募金が集まるのだろうかなどと大きなお世話を考えた。そもそも日本人は寄付向きでない。半日あそこに立つよりも、ティッシュ配りのバイトでもした方がよほどお金になるように思ったのだ。では、新宿まで300円強だと思うのだが、3人分往復電車賃を使って1800円を投資した時に、新宿駅前で募金するのとどちらが実入りがいいのだろうかなどとも考えた。
もちろん、ボランティアだけに金額の大小だけでなく善意の浄財を集めることに重きを置くという考え方もある。多摩センター駅前という場所で募金をするのが妥当なのかというつまらないことを考えるのは効率化重視の浮き世に毒されている証拠である。
あの学生さんたちはもちろん善意で行っている訳だが、1日ボランティアで募金活動をする工数を使って、バイトをした方がたくさんのお金を集めることができると知ったとして、そのバイト代を全額寄付できるのだろうか?などとも考える。
私はどうも人が悪いようだ。
もしも、善意の学生たちを大量に集めて、善意のアルバイト先をたくさん見つけて、善意の学生さんのアルバイト代をすべて寄付をするから、バイト先にも色をつけてもらうなどという仕組みを作ったら面白いのではないかなどと考える。私が考えつくぐらいなので、そんな仕組みはもうあるのだろうか。もちろん、事務局が透明性が高くて、善意の人々に運営される必要はある。日本人は寄付というものが苦手である。西洋に限らず、海外は寄付やお布施にとても寛容だが、日本人はどうも寄付というものに世知辛い。タイガーマスク運動をしてみたり、災害ボランティアをする人がいるので、善意がないわけではない。個人的には寄付という形態が日本人向きでないように思う。
(当然ですが、意見には個人差があります。)(笑)