気づきと鍵

友人との対話の中で実に面白い内容があったので、書いてみる。

仏陀の言葉をまとめたスッタニバータを薦められた時である。お薦めの本以外にも超訳などいろいろとあるが、特定の著作を強く推奨された。原理主義なその友人らしい趣味ではある。

その時に私の回答が実に興味深い。

誰にとってもベストな本などない。その人に伝わりやすいチャネルというものがある。言葉が伝わることに意味があるのではなく、イメージが伝わることが重要なのだ。言葉自体は意味はない。最終的には行間に意味がある。本でなくとも漫画やアニメであっても良い。本人にあったチャネルの方が伝わる。それは鍵にすぎず、本当の気づきは内からやってくる。それは過去に散々といろんな情報をインプットした結果かもしれない。しかし、その時点では腑に落ちておらず、何かを鍵として内から気づきが現れる。

極端な話をすれば、本を読むのでなく、本の波動を感じてそれで気づきを得られるならそれでも良い。

今、ネットで対話をしている人がいるが、その人は私の言葉をトリガーにして内から気づきを取り出している。それは私の言葉自体が理解されたというよりは、それが鍵であり、それを引き起こすトリガーになっているに過ぎない。その人も過去に様々な経験によりインプットはしているだろう。しかしその時点ではつながらなかったようだ。しかし、なぜか私との対話の中でつながっていくので気づきとなる。だが、それは私が引き起こしているわけではない。ただ、それが起きるのを一緒に見ているだけに過ぎない。

それが起きるのを見て、過去に自分に何が起きていたのかがわかったような気がした。私はそれにより学ばせてもらっている。

この文章が面白いのは、こんなことを私はあまり考えたことがなかったのだ。友人との対話の中で勝手に現れた。なるほど、なるほどと書きながら納得する私がいる。それって何か変である。