イハレアカラ・ヒューレン著の「ウニヒピリ」を読み終わった。ホ・オポノポノの延長線上にある概念である。
ウニヒピリとは潜在意識のことであり、自分が生まれてからの記憶だけではなく、この世の始まりからのすべての人の記憶を持っているという。それを「クリーニングツール」を使ってクリーニングをしていくというメソッドだ。
潜在意識には自分の記憶だけでない他人の記憶も影響しているというのは、私がUSPTを独自に改変をしてやってきた「統合」とよく似た概念である。
自分の中から解離を探し出していくと、経験的に自分の記憶、前世の記憶以外にオリジナルのUSPTにはない先祖の記憶が現れる。時には憑依(他人の霊)もある。そう考えると、潜在意識は自分も他人も、現在の人とも、過去の人とも記憶でつながっている。
それら一緒に「統合」を実施してきたことで、私はUSPT改を精神的なダメージの原因を取り除くのに使ってきた。
ウニヒピリはその概念によく似たものだということで、私としては実感がわきやすかった。
ホ・オポノポノでは4つのワード(ごめんなさい、許してください、ありがとう、愛しています)を使ったクリーニングしかなかったのだが、ウニヒピリでは新しい「クリーニングツール」が提供されている。
「ブルーソーラーウォーター」「アイスブルー」「ゴールドドラム」「ドラムスティック」「ブルーメッシュ」と青が多い。ハワイ起源なこともあり、ブルーが多いのだろうかなどと思う。
使い方は本を読んでもらうとして、新しい「クリーニングツール」の効果は十分に感じる。なぜ、アイスブルー(氷河の青)がクリーニングに役立つのか、ゴールドドラムがなぜ効果があるかというのはわからない。何かの象徴なのだろう。
レイキのシンボルも元をたどれば、意味がある。第2シンボルは阿弥陀仏を示すサンスクリット文字だし、第3、第4シンボルについてはもろに日本の漢字だった。しかし、その意味がわからない外国人にとってもなぜか機能する。
ウニヒピリで提供される「クリーニングツール」も、仕組みは何かわからないが、道具としては十分に使えた。
私の解釈であるが、記憶のクリーニングは記憶の消去や浄化ではない、記憶とともにある感情による偏りもしくは歪が存在するのだが、そのリバランスである。プラスにしてもマイナスへしても偏りがある場合に、プラスマイナス0にリバランスをする。目指すは0値である。
人はありとあらゆることを記憶として持ち、その時に伴った感情により、多かれ少なかれ偏りができる。好きと嫌い、良いと悪い。二元の世界において、それは常に行ったり来たりをする。自我は記憶とそれに付帯する感情記憶のデータベースでできており、目の前にあるものはデータに照会をして、その意味と価値を理解すると私は思う。
人は往々にして目の前のものを見ていても、実は過去を見ているのである。それが自我を通して見ると物事をありのままを見られないということ。
ウニヒピリにある偏りは、現象をありのままに捉えることを許さず、それにより苦しみを引き起こすことにつながる。
完全に悟ることが自我を手放すことであるとするなら、この世に楽も苦も、好きも嫌いも、幸せも不幸もなくなるだろう。それではこの世を生きるには面白みはない。自我はこの世を生きるには道具として必要なのだろう。それは恩寵であり、生きるヨスガである。
自我に偏りの多い記憶があると苦しみも多い、その偏りをリバランスをするのがクリーニングではないかと思う。自我を抱えたまま、ありのままの世界に生きようとするには、なるほど一理ある。
USPTの場合は生きづらさへの対処として実行をする側面があり、苦を元に検索をするが、ウニヒピリのクリーニングの場合はすべての記憶に対してのリバランスを行う。
湧いてくるすべての思いについて、すべてクリーニングをするという発想である。これは私にとっては新しい。
自我の構成要素である記憶と付帯する感情記憶の偏りをすべてリバランスをするにはそういうメソッドになるのだろう。このクリーニングは終わりがなく、一生行うことになるのかもしれない。次から次へとテーマは現れてくる。
人が目の前のことをあるがままに捉えることができるのは、幸せであり、平安であろう。そのようになりたいものだ。