痛みと感情の関係

以前に生まれつき無痛症を題材にしたドラマがやっていた。たしか、西島英俊が主演だったような覚えがある。それを見て、痛みと感情についてずいぶんと考えさせられたことがある。

先天性無痛症はドラマの中の話だけではなく、実際に存在するようだ。なので、実際には人の精神にどのような影響を与えるのかは創作物とは違っているのかもしれない。これはあくまでテレビドラマを見た際に考えたことを語るのみである。

先天性無痛症の人は痛みという概念が理解できない。その感覚は私のように痛みを十分に感じる人間には想像がつかない。ただ、転んでも、人を殴っても痛みがないので、嫌な思いはせずにすむが一歩間違えると体を壊してしまったり、無理をすることになる。

通常、痛みを感じると嫌だし、それを感じることが死に近づくと感じると痛みは避けたいものになる。痛みの概念がわからないと、自分の痛みだけでなく、他人の痛みも理解できないだろう。

通常の痛みを感じる人間は、外傷的な痛みや病気の痛みだけでなく、恐れや悲しみ、心の苦痛も同様に痛みにとして感じている。たとえば、寂しさや悲しさ、つらさは痛みとして感じる。

心の痛みと表現をしているのは、脳の方は体の痛みと心の痛みを同じ神経で扱っているからだとTVか何かで見たことがある。

逆に幸福感とか楽しいという感覚というのは、痛みから遠いことで感じるのではないかと思う。痛みは相対的なゼロ起点を意味する。激痛が起点になり、強い痛み、弱い痛み、痛みのない状態、そこから距離感があって安心感がある状態が楽しいとか、幸福という感じである。

相対的な尺度で測る場合、起点からの距離を測定して初めて感じられるので、もし、起点がない場合は測定自体ができない。痛みという概念自体がない場合は不幸も感じないかわりに、幸福も感じられないのではないかと思うのだ。

自分自身が何かを感じる時に、たぶん何かを起点としてそこからの距離感で濃淡を感じていることというのは的を得ていると思う。それは地上0mが特定できるから、高さが測定できるのであって、もし地上0mがない場合は高さの度合いは出しようもない。

実際の無痛症の人がどのような感覚を持つかはわからないが、ドラマをみる限りで言えば、感情が薄くなるし、痛みがないことでポジティブな感覚もよくわからなくなるのではないかと思った。

二元的な世界に生きている場合、白一色では濃淡が表せないし、不幸がないと幸せは感じられない。痛みがないと、楽であるかどうかはわからない。

幸せを感じるには、不幸つまり痛みや苦痛が必要なのである。

今、苦しみの真っ只中にいる人に、あなたの苦痛は必要なんだなんて馬鹿なことを言うつもりはない。苦しい時は苦しいだけだ。

少し苦しみを乗り越えたあたりでは、自分が苦しみが分かるようになった分、幸せもわかるようになったことに気づくかもしれない。

皆が自分と同じように痛みや苦しみ、快適さや幸せを感じる力があると思うのは大間違いだ。経験によっても違うし、稀ではあるが痛みを感じない人もいる。

その違いを乗り越えることは多分簡単ではない。