テレビで発達障害を扱う番組を見た。発達障害にはADHDや学習障害などいろいろとある。
たとえば、音や光に敏感すぎたり、いろんな考えが入ってくると整理しきれない、読み書き計算が苦手だったりする。
これは一般人が1つのことに集中することができる時に、つまりその他の情報を頭の中でカットできるのに対して、それを一度にたくさん扱おうとするのだろう。それに頭の処理が追い付かないのだ。
一度にたくさんの音が入ってきても、一般的には1つの音に集中すると他が除外されるような頭の使い方をする。ところが、入ってきた音をすべて一度に扱おうとすると疲れるに決まっている。
また、読み書き計算が苦手なケースはあるが、その分他の能力が高いケースもある。それは劣っているというより、脳のチューンアップの仕方が違うといえる。
あくまで社会生活に支障がでるので、障害と呼ばれるのだが、これはむしろ局所的に能力が高すぎることに起因をしているのではないかと思う。
たとえば、光や音に敏感すぎるというのはその能力が人並み外れて高いのではないかということである。集音能力が人並み以上だったり、可聴領域が広すぎると社会生活はつらいものになる。この世は雑音だらけである。
幼かった息子達と道を歩いていて、私は何も聞こえないのに猫除けの高周波発生器の音を聞いて、耳が痛いと訴えられたことがある。私はまったく聞こえないが、子供には嫌な音として聞こえるのだ。
私自身は一般の人より、気や念についての感度が高い。それがわかるようになってすぐは電車に乗るのが苦痛だった。周囲の人の邪気がダイレクトに入ってきてしんどいのだ。きれいな女の子と目が合うだけで、その人の邪気やら憑依が感じられるのはたまったものではない。100年の恋も冷めてしまう。
気功の師匠について、バリアを張ったり、能力をオフにする方法を練習をしてコントロールを覚えた。一部の視覚的霊能者には余分なものが見えすぎると日常生活には不都合なので、通常は能力をカットしている人がいる。
片方で、自分ではコントロールができずに、ジャラジャラとアクセサリーを付けることで能力を抑えているような人もいた。やはり、日常生活では余分なものは見えない方が良いらしい。これも社会生活に支障が出れば立派な”発達障害”である。
社会生活において、人並み外れた知覚能力は雑音にすぎず、それが制御不能であれば”障害”扱いになる。それがたとえ能力が高いことに起因したとしても、ということではないだろうか。
たとえば、絶対音感などお金になる力は”能力”と言われる。絶対音感のある人でも悩みはあるようで、音楽や雑音もすべて音階がわかり、そのズレがあると気になるので苦痛という人がいると聞いたことがある。高すぎる能力は、日常を生きるのには不要だったりする。
一概に発達障害と言われている人の中には、一般の人に比べて能力が高すぎることにより、苦痛を感じている人が含まれていると私は思うのだ。
それは、そこにはむしろ才能が埋まっているはず。F1マシンに乗って、一般道路を走るのは苦痛があるだろう。最大能力を発揮するには、サーキットに行かないと出し切れない。
ガンダムではニュータイプという描写があり、人の想念や意識が勝手に流入してくることで苦しむシーンもあったと思う。発達障害と呼ばれる人の中には、いろんな才能によるニュータイプが含まれているに違いない。それは人類の可能性を含んでいるかもしれない。
ちなみに、私は数字と人の顔・名前を覚えるのがひどく苦手であり、社会人としては困っている。また、空気を読まずにおしゃべりをしすぎることが多い。
これは社会生活をきたすほどではないが、発達障害の傾向ではある。それが気の感覚が一般の人より高い代償なのかもしれない。