グルメ動画を見ていたらラーメンが食べたくなり、「鶏白湯 蔭山」にラーメンを食べに行った。食べログで高得点を取っているので、そのうち食べに行こうと思っていた。
日曜の午後13時を回っているが、コロナ対策で間引きした席は満席で、待つ客もいた。やはり人気店である。
担々麺を注文をして、しばらくするとラーメンが出てきた。ラーメンにしては太麺に、担々麺にしては酸味が強く、微妙に東南アジアに寄せたスープは手が込んでいることが素人にもわかった。辛いひき肉にはくるみが入っていたりして、味も触感も変化にも富んでいる。
結果、完食をして、スープは飲み干しそうになるのを、塩分を気にして途中で飲むのをやめた。きっと、たぶん、おいしいのだと思うのだ。食べログで3.6を超えるラーメンであり、自分も不味いとは思わない。
ところが、美味しいかどうかが自分ではよくわからなかった。コロナ感染による味覚障害ではない。
たぶん、私は味に対して、絶対音感ならぬ、絶対味覚はもっていない。何かを単独で食べて、それがどのくらい美味いのかわからないのだ。相対味覚として、何かと何かを比較すれば、どちらが美味いのかがわかる。
このラーメンは私が普通に食べるラーメンとはかけ離れているので、比較対象がないために、美味いか不味いかわからないのが、原因だと思う。
同じようなことが、別の店でも経験をしたことがある。やはり、鶏スープの「らぁ麺やまぐち」、食べログで3.9を超える人気店で、よく行列を作っているのを見る。あそこで鶏そばを食べた時も、美味いか不味いかがよくわからなかった。スープは素人目にも丁寧な仕事で手が込んだ作りであることがわかり、麺もこだわったものであることは感じた。しかし、私のバカ舌では美味いか不味いかよくわからなかった。
私は、美味しいかどうかの判定を、食べなれたものとの比較で決めているのだろう。だから、普段食べなれていないものを食べると、美味いか不味いかがわからない。これらは私の味ライブラリーからはかけ離れているのだ。
ペルシャ料理やトルコ料理を初めて食べると、それが美味いのか不味いのかがわからない。なんだろ、これはと思って食べる。そんな感じ。
これは私の味の引き出しがいかに貧弱であるかの証明でしかない。蔭山もやまぐちもラーメンはきっと美味しいのだろうと思う。ただ、私の実感としてはよくわからなかった。
世間が美味いと言っているものは美味いのだという迎合をしたいわけではない。手が込んでいれば美味いのかというのもまた違う。味などというものは、本人の好き好きでしかない。
そんな私でもたぶん食べた瞬間に「ナニコレ、マジ美味い」というものはあると思う。ただ、それはきっと至って平凡な食べ物であり、創作料理のような奇をてらったり、斬新な代物ではないのだろう。食べなれたものと認識できて、それが洗練されたものなのだと思う。
味に限らず、他の感覚も比較によって感じているものはあるだろう。自分なりに基準があって、それに照らし合わせる。もちろん、絶対音感のような特殊能力を持つ人もいるかもしれないが。どちらにしても、私には味覚の才能はないようだ。
私の気の感覚もある意味、経験的な比較によって、測っている所はある。私が経験しているのとは全くかけ離れた気を感じた時にはそれがなんなのかわからないこともあるかもしれない。
経験を積むことは重要である。
鶏そばを食べなれると、美味い不味いがわかるだろう。きっとね。