バランス・アンプと中森明菜

中森明菜の音楽をスピーカーで聴いていた時である。ああ、中森明菜の声は素晴らしいと思って、バランスアンプとヘッドホンで聴いてみようと思った。

バランス・アンプで聴くと音の解像度は上がり、いろんな音がよく聴こえるような気がする。中森明菜のささやくような絞り出すような歌声は、上手いのとは少し違うような気がした。ただ、情感に訴えるような声がスゴイのだ。

声楽家の歌声が芸術であると感じる人にとっては、むしろ下手な歌と感じるのかもしれない。ただ、私は歌手は歌声が重要であり、情感に訴える部分も芸術であると思っている。

過去にアンドレア・ボチェッリやパヴァロッティを好んで聴く友人に椎名林檎の三毒史に痛く感銘を受けたと勧めたことがあった。彼からはそのサイケデリックとも言える音楽をボロクソに言われた。彼の芸術論には型があり、こういうものが芸術であるという線があった。どうやらその型の中に椎名林檎は入らなかったようだ。

私は椎名林檎の官能的な声自体が好きであるのと、芸術は波動の高いものが良く、それは個の精神の発露であると考える。見える世界の型のパターンで芸術を判定する友人とは残念ながら、その側面では共感ができなかった。

私はクラシック、オペラ、民族音楽(イスラム音楽やインド、中国の古典音楽など)、JAZZ、歌謡曲、ヒーリング音楽、環境音のようなものまで、様々なジャンルの音楽を好んで聴く。クラシックが芸術で、歌謡曲(J-POP)が芸術ではないというとらえ方はしない。

それに良い、悪いはなく、それはあくまで違いに過ぎないと私は考える。

そういう観点でバランス・アンプでボチェッリやパヴァロッティを聴いてみた。彼らの音楽は全身を使って歌う声量にしても声の使い方、さらには波動的にも紛れもなく芸術だと言える。ただ、これと明菜を単純に比べるのは無理がある。中森明菜の歌声は声楽的には上手くはないが、その優しい波動は人の心に癒しを与える。

私はそれを十分に芸術だと思う。

個人的には薬師丸ひろ子の歌声も同様に好きなのだが、歌が上手いというよりも、その優しい歌声のパワーが素晴らしすぎるのだ。ただ、友人とはそういう辺りが残念ながら共感できないようである。

好みなんてものは、人それぞれでそうそうは一致しないものだ。