終わらない人生

我は死んだことがないので、死後の世界についてはわからない。死後の世界という奴は臨時体験などで語られており、それはそれであるのかもと思ふ。

しかし、霊体の状態はもはや人とは別の存在だと思っておる。魂と肉体と自我がセットで一人の人だと我は考える。

クローンは肉体が同じでも、魂と自我は別のものが入るとすると別人。ましてや、前世など他人の記憶を持っているだけである。と考える。

他者を見ていると死はその人の終わりを意味する。少なくとも、肉体とその付属システムである自我は死とともに終わる。

所が一人称で見た時に自分が死んだというフェーズはないと思ふのだ。肉体が活動停止をする最後の一瞬まで生きており、止まった瞬間に感知できない。人は自分の死の認識はできないのではと考える。

もちろん、臨死体験で言われる霊体としての経験は否定しないが、それはもはや人ではない。

そう考えた時に生きている人の状態ではいつまで待ってもやってくるのは生であり、死はやってこない。いつやって来るかもわからない死が突然やってきた時にはもはや認識はない。

人生は生きている記憶しかない。人生は認識があるうちは終わらない。それは子供が眠ったのを確認してから現れるサンタクロースのようなものだ。子供がサンタを見ることはないのだ。

死にそうだとか、年老いたからもうすぐ終わりだと思った所で、生きておる間にいつもやってくるのは生なのだ。

死んだらどうしようと思ったりするのだが、そもそも人が何かをなせる「今ここ」には死は現れないのだからそんなことを考えても仕方あるまい。

死んだらどうしようなどと我も心配をするのだが、全く無駄である。

その上、死はいつ来るのかわからない。年老いた者だけでなく、若き者、幼き者にもやって来る。

せいぜいできるのは、後悔しないようにしたいことは今すぐにやることぐらいだ。

死は全て寿命だと思ふ。病気、事故、老衰、自殺。全てが寿命と考える。自殺してすら確実に死ぬわけではない。死ぬまでは人は嫌でも生きなければならない。

それまでの間、死を恐れても、死を望んでも、時が来るまではただただ無情に生がやってくる。

それなら、死を恐れるのも無用、生きることを拒むのもまた無用。生が起きている内は、ありがたく、その時間を好きなことに使うのがよかろう。

人生は終わらぬものとして、魂がもとむること、魂がよろこぶことをし続ける。それがよかろう。