人が見ているのは0.5秒前の過去であると最新の科学は言っているという話を書いた事がある。
その意味することは、人は自分の意思で行動しているのではなく、無意識を通して何者かに操られている世界を眺めながら、自分で行動していると勝手に思い込んでいる訳だ。何者かとは、神とか宇宙がしっくりくる。
世界は勝手に起きていて、自分を自分の意志で動かしている訳ではないこととなる。
その場合、自分ができることは解釈だけである。同じ映画を見ていても、人によって受け止め方は全く違うように、目の前に起きている事を解釈することだけは自由にできる。この場合、行動に自由はないのだから、思いの上で目の前の出来事を幸せだ、感謝だと思えれば幸せであり、不幸だと思えば不幸になる。
人は幸せになるために生きるのであれば、人生への解釈を感謝に満ちた幸せなものであるとするだけで、幸せになれる。何もする必要はないし、何もできないのだから。
物事には必ず良い面と悪い面が裏表のように存在するものだ。良い面だけに目を向ける事ができたなら、何が起きても幸せである。それができないのは、人の自我の中に沈んでいるこだわりや思い込みのせいであり、それがあるからこそのヒトである。
もし、そのこだわりが無くなっているならそれは御陀仏というもので、人ならぬホトケとなっているのだろう。
身体を持つ身はなかなかこんな境地にはなりにくい。生まれてこの方の実感は常に自分が思って、何かをして、結果が生まれる。思ったことすら、何者かに操作されているとは思わない。
ゲームのキャラ、映画の主人公もきっとそう思っているに違いない。自分が人生という映画の主人公とは認められるものではない。