生きることは結果ではなく原因

私は何のために生きているのだろう、私はなぜここにいるんだろうという問いは散々と頭の中を駆け巡った。

一つの理由に役に立たねば存在の意味がないという誤解を親や社会から刷り込まれたこともある。特に昔は基本が働かざるもの食うべからずであったので、致し方がない。

私は役に立っていないのに生きていて良いのか?という問いはかつて私に希死念慮をもたらした。

いつの頃か、「生きる意味や価値など最初から存在はしない、生きる意味は自分で作るもの」という解をもって、私はなぜ生きているんだろうという問いに対抗できるようになった。

ところが何年経っても、自分で作るはずの意味が見つからない。これも最終的な答えではないのだろうと薄々は気づいていた。そして、相変わらず私にはなぜ生きているんだろうという問いは頭にやってきた。

そもそも、太古からの人にとっての命題であり、簡単ではない。

自分はこれをするために生まれてきたんだ、これをせねば生まれた甲斐がないというテーマを見つけた人々を横目に、何やってんだろ私などと思い、自分のテーマを探し続ける。

私は生まれた甲斐を探すのを諦めたわけではない。何歳になっても地道に探して見せようとは思う。

最近,私の頭の中に時々やってくるメッセージは「生きることは結果ではなく原因なのだ」である。

生きていることの原因、理由を探しているのだが、そもそも生きていることはただ起きていることでそれは原因でしかない。生きているからこそ、様々なことが起きて結果を巻き起こす。

私たちは生かされていることに意味や原因を求めて、生きていることが承認されることで安心したい。しかし、生きることはただ生きている、起きていることであり、前提である。逆に言えば意味なく生きていて良い。生きることに承認なんて不要なのだ。

かつてこんなことも考えた。生きていることは神様もしくは何か創造主、もしくは宇宙、大自然が承認したから生きているので起きており、我々が気にする必要はない。

こういう時に神様とか絶対的存在というのは便利である。生かされる理由に困ると仮置きとして神の意思を使うと便利である。しかし、これもやはり誰かの承認を必要としている。

自分の生きる意味やら価値を考える必要はない、のだろう。たぶん、それは無駄なのだ。そもそも、人がなぜ生きているのかの本当の理由をわかる人など存在しない。もし、テレビゲームのマリオが自分が生み出された経緯がニンテンドーの商売であり、利益のためと知ることができようか。また、それを知っても良いことは何もない。

それより、生きていることから生み出される全てに目を向けることが重要なのだろう。

人はこの世界にとって意味のあること、価値のあることのために生きているのではない。他人から見て、意味があろうが無かろうが、体験する全てこそが成果なのだ。たぶん。

スティーブ・ジョブズやナポレオンの成果も、市井の人の人生もたぶん同じように貴重な体験なのではないだろうか。それはゲームの点数のようなものかもしれない。勝ち負けで言えば、市井の人より、有名人の方が点数は上でかもさしれない。ただ、ゲームの目的は楽しむことで勝つことではないとしたら、どちらが目的に沿うかはわからない。

この答え合わせは生きているうちに果たしてできるものだろうか。だから、古代からの命題なのだ。