利用価値と存在価値

世の中には無価値感に苛まれる人が少なからずいる。私もそうであった。そういう人はむしろ”いい人”に多い。

親は子供に対して、結局の所は生きていてくれるだけで良いと考える。人には存在価値、いてくれるだけで良いという価値がある。

ところが、世の中で教わるのは全て利用価値である。社会という所は、人を利用価値で測りがちなのは今の社会はエゴが支配的だからだろう。そんなことばかりを言われていると、その挙げ句は自分自身を利用価値で測るようになってしまう。社会による洗脳と言っても過言ではない。

私自身もそうだったのだが、使えるか使えないか、役に立つか否かでモノを考える。人の役に立たなければ生きている価値はないと考えてしまう。他人に対しても、自分に対しても。

他人に向けばネットの炎上となり、それが自分に向くとうつ病になる。私のインスピレーションが、本来は人間の価値は存在価値なのだと語る。どんな人にも、生きていてくれるだけでいい、生きていてほしいと思う人が存在するはずである。

仕事で役に立たなくとも、家事ができないとしても、生きていて欲しいと思ってくれる人がいれば、それで良いのだ。たとえ、親や家族がいない人でさえも、友人や知人がそう思ってくれるものだと思う。

私にとって、その人の存在価値がわからないとしても、その人に生きていて欲しい、生きているのがうれしいと感じる人がいる限りは、存在価値があるのだと思う。

自分自身に対しても、人に対しても存在価値でモノを考えられると素敵である。