木偶のいる街

ある日、通勤のために並木道を歩いていた。何がきっかけなのかわからないのだけれど、今この瞬間に生きていられて良かったというような思いがやってきた。この世界は美しいと思え、道端の太い樹木すら愛おしいと思った。

正直意味がわからないのだが、そう思った時何も恐いと思わないような気分と街行く人々が何か木偶のように感じた。能動的に考えたり動くような人格のある他人ではなく、何かに操られている人形のようなモノに感じたのだ。その状態はいつまでだったのかわからないのだけど、会社に着いてもそんな感じであった。

私は元々他人の目が気になる人であり、他人はある意味で怖かったはずだ。だが、何か操り人形かマネキンのような代物が周囲で動いていても怖いとは思わなかったのだ。

翌日にはその感覚はなくなっていたと思う。

その時に自我がなくなるということは、誰が好きで誰が嫌いかがなくなる、何が良くて何が悪いかもなくなるということだと感じた。すべてはフラットだ。今は単身赴任で寂しいと思っているのだが、寂しいと思うのは家族が特別に大事だと思っているから寂しい訳で、寂しいがなくなる代わりに家族が大切というのもなくなってしまう。それは耐えがたいという恐れがあった。

その時の私も自我がなくなっている訳ではないので、恐れはあった。あとわずかな人生で、悟ってしまう必要などなく、自我をもって二元の世界に生きる方が楽しいのではないかと思った。どうせ生きても高々50年しかない。どちらにしても死ぬと自我は手放すことになる。せめてその時までは自我というおもちゃで遊んだほうがよかろうと。

感覚の問題も、時間の縮尺の問題もめちゃくちゃであるが、そんな風に感じた。悟れば楽になれるはずだ、だから悟りたいと思って生きてきた。しかし、そんなことに意味がないという感覚、その時に垣間見たのはそんなことだった。

なんでそんなことを思ったのかはわからない。朝の通勤時であり、寝ぼけていた訳ではないと思うのだが。(笑)