類魂について

昔、携帯事業者の会社立ち上げを共に行った同僚と一緒に飲みに行った。同じ釜の飯を食った仲間との再会はもう20年ぶりぐらいだったが、会った瞬間になんの違和感もなく語り合えた。

苦労を共にした仲間というのは、信頼感を含めての安心感があるのかもしれないし、ご縁が強くあるのかもしれない。20年間お互いが生きていたからこそ会える。人など、実はいつ死んでも不思議ではないので、会えたことに感謝をしたいと同級生などに会う度に思うものだ。

私は当時から不思議なことを言うオカルト好きな人であったが、彼は当時はそうではなかったと記憶をしている。しかし、今は目に見えない世界にも興味を持ち、生きるとは何か?死後の世界には何があるのか?というような哲学的テーマに強く魅かれるという。

人間、折り返し地点を過ぎた実感があれば、多かれ少なかれそういうことに興味を持つものだ。

大変興味深かったのは、彼の魂の考え方が私の捉え方とよく似ていたことである。

私は人が魂になって帰る場所に戻ると同じグループが1つに融合するようなイメージを持つ。記憶と感情を共有をし、次に生まれ変わる時にはそこから分魂する。類魂という考え方だろうか。

魂が1杯のコップの水であるとすると、生きている間にその水に幾分の記憶の色がつく。やがて死ぬとそのコップは霊界の大きなバケツに戻る。現世から持ち帰った記憶とともに。次に生まれ変わる時にはバケツの水をまたコップに詰めて送り出す。その中にはいろんな人が経験をした記憶の断片が混じっている。

この場合、過去世の記憶を生まれ変わりの際に複数の人が共有することになる。自分の経験上や瞑想のイメージからそのような考え方をしている。もちろん、これは私独自の考え方ではないが、さほどメジャーな考え方でもない。

私がそのような捉え方をするのは、瞑想やUSPTで過去世によるトラウマなども引っ張り出すことになるが、たぶんまったく違う人物のそれも同じような時代の記憶もあるように感じる。だから、そのようなイメージをしている。

彼は死後の世界での魂の動きについて、まったく同じイメージでとらえていた。

実に面白いと思った。今まで個人的にそのような人と出会うことはなかった。霊能者の類であれば、そのような考え方をしていることはあっても、一般の人でそのような考えを持つ人がいるのだ。

今の世の中は随分とスピリチャルな考えが市民権を得ている。昔には考えられなかったことであるが、時代の変化を感じる。