自由主義の崩壊が来ている?

1990代頃から自由主義の次は何が来るのか?という疑問に対して明確な答えは見当たらない。

ソビエトを中心に発生した社会主義は崩壊していった。マルクスが描いた共産主義の大規模な社会実験として行われたのだが、失敗であった。人類のスペックがお粗末で理想の実現など出来なかった。その名残で残っている社会主義国は中途半端に自由主義を取り込んだ出来損ないとして存在している。

マルクスは人類の夢としての共産主義を提案したが、その具体的な実現方法までは提示していない。ソビエトが理想を夢を見て、王政を廃したが、結局は役人が王に代わって支配者になっただけだ。一部の人間による支配と搾取の構図は何も変わらない。

皆が平等にであるはずの共産主義とは似ても似つかないお粗末な代物となった。共産主義がダメと言うよりは、自分だけが生き残りたくて、競争の好きな人類が行うにはまだハードルが高いのだ。

一党による独裁体制が万民を幸せにするわけもない。皆に平等な権利を守るはずが、権力を持つものは他人を虐げる支配者になろうとしてしまう。また、競争原理が働かないと皆が怠惰になりやる気を失う。

自由主義、社会主義に限らず、今の時代も世界では指導者が独裁者になろうとする動きが見られる。王様が悪くて、独裁党や民間出身の独裁者が良いなんてことはない。

徳のない民間の代表者より、徳のある王様の方がマシですらある。指導者に必要なのはその出自でなく他者を支配しない徳である。

自由主義というのは自由競争によって成り立っているのだが、コロナ禍によって自由競争を制限せざるをえなくなると、経済は回らなくなる。

現在の経済は不要不急なある意味無駄なものによって成り立っている。生きるために最低限必要なものだけではマネーは回らず、不要不急な余裕の文化によってマネーは回っている。高額なものは生きるだけなら不要なものばかりだ。

自由競争によって、お金を取り合って生きろという自由(競争)主義は競争が好きな今までの人類にとって最適解であった。

しかし、人類の数が増えるにあたって生きるために必要なモノだけでは経済は回らないのはそもそも見えていた。道具の進化は人の労働力を不要としつつある。

人が生きるだけに必要最低限のものを維持するならこんなに多くの労働力はいらない。だから、無駄なことで仕事を作ってきた。人を労働力と見なすなら、道具としては大量に不要品となってしまう。

一部の強者のみが富を独占すればその他大勢が食えなくなる。仕事がなくなれば、その人達は生きられない。人を労働力のみとしてみるなら粛正が必要になってしまうのだ。コロナ禍はそれをより顕著に見せつけることになっている。

その際の選択肢は大きく分けると極論ではあるが、選民のみを残して他を死滅させるか、皆で手を取り合って皆で生き延びるか。

争いが前提だった19世紀までの人類のスタンダードでは前者しか選べず、その続きをやっている今も争いが絶えない。行き着く先は戦争である。

後者を選ぶには、弱肉強食の自由主義や社会主義ではダメなのである。本能に任せて競争に勝って、自分だけが生き残ろうという発想ではないのだ。富を分け合う発想に適応していかないといけない。

これは我々19世紀生まれの人間では発想できないのかもしれない。魂のスペックが追いついていかない。

今の若者たちは我々に比べて、フラットに物事を考える人たちがいる、インディゴチルドレン、レインボーチルドレンと言われる精神性の違う子たちである。

人類変革と生き残りを求めるなら世代交代が必要である。70代、80代は引退し、より若い世代に道を譲ることが必要だ。特に社会の強者としての政治家と経営者が徳を持たねばいけない。

老兵は去るのみとは言わないが、老兵がいつまでも幅を利かせていては、19世紀の間違いを繰り返すだけだ。